チェーホフをより愛するために――濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』

人は他者を理解することは難しい。その難しさゆえに様々な事件が起き、悲劇が生まれる。文学、さらに広く芸術が存在するのは、この困難さのゆえではないか、とさえ思う。チェーホフは、私の愛する作家のひとりだが、彼の文学に通底するのは、まさしくこの悲劇である。そして、この映画は、そんなチェーホフを下敷きにしている。

主人公の家福(かふく)は、舞台の演出家、また俳優でもある。彼はチェーホフの『ワーニャおじさん』を舞台にかけようとする。彼がオーディションで選んだのは、日本人と韓国人たち。ふたつの言語で芝居を進めるという意図である。しかも、主役のひとり、ソーニャには、手話でしかコミュニケーションができない韓国人を選ぶ。日本語、韓国語、手話が、同じ舞台で対話され会話されるのだ。

この映画は、村上春樹の同名の短編をもとにしている。主人公の家福が『ワーニャおじさん』に関わることは原作どおりだが、複数の言語でそれを上演するという場面は出てこない。すなわちこの発想は、脚本も書いた濱口竜介監督のオリジナルである。この試みは、原作を超えて、より深くチェーホフに肉薄するものとなった。

家福が愛した妻は、突然くも膜下出血で亡くなる。家福に、話があると言っていたその日に。それが何の話なのか、彼には分からない。妻は、複数の男と関係を持っていた。そのことを家福は知っており、承知のうえで、妻を愛したのであった。妻の死後、その愛人のひとりと、家福は深く関わることになる。

あとひとり、この映画には重要な登場人物がいる。家福の愛車を運転する、若い女である。彼女は、土石流で母親を亡くしている。そしてこの出来事を、親殺しと関連させる。親から受けた仕打ちのゆえに、土中の母親を見殺しにしたと言うのだ。

映画は、幾重にも人間模様を絡ませながら、それらは家福の演出する『ワーニャおじさん』に収斂する。俳優たちの読み合わせにはじまって、動作付け、そして本番へと。その舞台は、日本語と韓国語、手話が入り混じる。コミュニケーションの不可能さをテーマとした作品である。その不可能性がさらに混乱することにならないのか。

『ワーニャおじさん』の最後は、ソーニャの言葉で締めくくられる。ワーニャの姪で、彼とともに田舎の農場をやりくりする女性である。この芝居を観るたびに、私はここで涙することになるのだが。

「でも、仕方がないわ、生きていかなければ! ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命が私たちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえていきましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてその時が来たら、素直に死んでいきましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送ってきたか、それを残らず申し上げましょうね。すると神さまは、まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るい、すばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ嬉しい!と、思わず声をあげるのよ。そして現在の不仕合わせな暮らしを、なつかしく、ほほえましく振り返って、私たち――ほっと息がつけるんだわ。私、ほんとにそう思うの、伯父さん。心底から、燃えるように、焼けつくように、私そう思うの」(神西清訳)

舞台では、このソーニャの言葉は発音されることはない。すべて手話で語られる。観る者は、字幕で内容を理解する。そして、ふたつの言語と手話で演じられるこの破天荒な試みが、見事に成功したことを実感する。それはそのまま、この映画の成功であることはいうまでもない。

2021年9月10日 於いてTOHOシネマズ錦糸町オリナス
2021年日本映画
原作:村上春樹
監督・脚本:濱口竜介
脚本:大江崇允
音楽:石橋英子
プロデューサー:山本晃久
撮影:四宮秀俊
照明:高井大樹
出演:西島秀俊、三浦透子、霧島れいか、パク・ユリム、ジン・デヨン、ソニア・ユアン、アン・フィテ、ペリー・ディゾン、安部聡子、岡田将生

2021年9月13日 j.mosa