新しい才能に喝采――カーチュン・ウォン指揮のマーラー『第5番』


音楽界の新しい潮流についてはまったくうとくなっている。NHKBSプレミアムで深夜に放映される番組を録画して、何カ月も経ってやっと観ることになるのだが、そのときはじめて、名前も聞いたことのない演奏家に接することになる。そして、あっと驚くのである。こんなにも素晴らしい音楽家が出現していたのか、と。

たとえば、ベートーヴェンの最後の3つのピアノソナタを演奏したイゴール・レヴィット。すでに2020年のザルツブルク音楽祭で弾いていたのだった。ベートーヴェンのピアノソナタは、ロマン派はもちろんのこと、ドビュッシーの音楽さえも先取りしている、と驚きをもって彼の演奏を聴いた。1987年生まれ。ロシア出身。

庄司紗矢香と共演して、火花を散らすバルトークを聴かせてくれたヴィキンガー・オラフソン。彼は、モーツァルトのピアノ協奏曲を、パーヴォ・ヤルヴィとクリストフ・エッシェンバッハと共演していたのだった。それぞれ24番と23番。バルトークとモーツァルトとは、もちろんアプローチがまったく異なる。フォルテピアノに近い音色のモーツァルトは、繊細極まりなく、不思議な斬新性を帯びている。1984年生まれ。アイスランド出身。

そして、つい先日の12月10日、友人に誘われて日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴きに行った。指揮はカーチュン・ウォン。聞いたことのない名前である。演奏に先立って、彼が当日のプログラムについて解説した。英語であるゆえ、通訳付きである。南こうせつに似た風貌で、親しみやすい。はたしてどのようなマーラーを聴かせてくれるのか。

マーラーの『交響曲第5番』は、『第1番』や『第4番』とともに、頻繁に聴いてきた曲目である。とりわけ『第5番』は、第4楽章のアダージェットがヴィスコンティの『ベニスに死す』に使われたこともあり、もっとも親しんでいたといっていい。しかしこの日、カーチュン・ウォンの音楽を聴くまでは、その構造を理解していたとはいいがたい。

彼は、第1楽章と第2楽章を続けて演奏した。それによってこの曲が、3部構成であることがより明瞭になった。荘厳と悲哀と熱狂が嵐のように荒れ狂う第1部(第1・2楽章)、諧謔に満ちた第2部(第3楽章)、甘美な官能とエネルギーに溢れる第3部(第4・5楽章)。悲劇が愛によって癒され、勝利に達する。物語が目の前に現出した。

カーチュン・ウォンの音楽は、知性に裏打ちされている。しかしもちろん、それに留まらない。感情の豊かさと熱さで、聴衆の心を揺さぶる。日フィルも熱演。会場の拍手は鳴りやまなかった。そして、スタンディングオベーション。私の心のなかにまたひとり、新しい才能が刻まれることとなった。嬉しいことである。

カーチュン・ウォンは、1986年生まれ。シンガポール出身。

2021年12月10日 於いてサントリーホール

アルチュニアン:トランペット協奏曲
マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調

トランペット=オッタヴィアーノ・クリストーフォリ
カーチュン・ウォン指揮
日本フィルハーモニー交響楽団

『ベニスに死す』と「アダージェット」については下記のブログを参照してください。
https://blog.goo.ne.jp/maya18_2006/e/9a5095dc5335c35e701e1c9eeaeb8c11

2021年12月17日 j.mosa