新しいヴィオレッタの出現――中村恵理の『椿姫』

名作といわれている作品には、観るたび、聴くたびに新しい発見がある。ヴェルディの『椿姫』は名作中の名作で、舞台で、ビデオで、CDでと、いく度観聴きしたか分からない。

最初の体験は忘れもしない、中学生のときに買ったLPである。但しこれは前奏曲のみで、名曲集のうちの1曲として収められていた。弦楽器で奏される、はかなく甘美なメロディは、胸に深く印象された。

そして、私のなかで一番心に残っている舞台といえば、アンドレア・ロストのヴィオレッタである。これは1998年2月、藤原歌劇団の公演だった。彼女の歌う、幸薄く、哀れなヴィオレッタに、私は打ちのめされてしまった。幕が降りるまで、ほとんど泣いていたような記憶がある。アンドレア・ロストの、可憐な美貌も影響したのかもしれない。

ナタリー・デセイ、ダニエラ・デッシー、デミトラ・テオドッシュなど、どの舞台も楽しんだものだが、やはり『椿姫』はプリマドンナ・オペラである。それは、指揮者やその他の出演者の記憶がまるでないことでも分かる。そして、ヴィオレッタは、常に薄幸の女性であった。

そんなヴィオレッタ像を革新してくれたのが、今回の中村恵理である。娼婦で、しかも結核という不治の病に犯されている。二重苦の、不幸という他ないこの女性に、強靭な意志を付与したのだ。私は目を見開かされる思いだった。

柔らかく、しかも強いその声は、4階席の私に直接届く。指揮のアンドリー・ユルケヴィチは、時にテンポを緩め、ヴィオレッタの心情を思いきり表現させる。そして中村は、よく指揮者の意図に応えた。あのテンポのなかで、少しの崩れもみせず役の内面を歌いきる力は、並ではない。

第一幕の有名なアリア「ああ、そはかの人か」で、中村の実力は存分に発揮された。恋のときめきと、自らの境遇への自嘲。ヴィオレッタの複雑な心情の表現は見事というほかなかった。しかし、私がもっとも心打たれたのは、第三幕である。

様々な誤解が解け、ようやく愛する人と一緒になれる。が、自らの命には終焉が近づいている。こんな無念なことはない。「いい人がいたら一緒になって」とヴィオレッタは恋人に言う。それは本心ではない。彼女は、死への抵抗を試みるのだ。たったひとりで。あまりに人間的であり、また、ここには、ヴィオレッタの生命力の強さがある。

ヴィオレッタは、ひとりの男をひたすら愛した。また、封建的な社会に必死の抵抗を試みた。そして、最後の力を振り絞って、死に立ち向かった。ヴィオレッタは、哀れではかない存在ではない。中村恵理は、そんな新しいヴィオレッタ像を、心を揺さぶる歌唱で表現したのだった。

緩急を柔軟に使い分け、中期ヴェルディの傑作を見事に造形してくれた指揮のユルケヴィチにも拍手をおくりたい。彼はウクライナ出身。母国が困難な状況にも関わらず、素晴らしいオペラを提供してくれた。他の出演者も熱演で、総じて極めて質の高い上演であった。

2022年3月19日 新国立劇場

指揮:アンドリー・ユルケヴィチ
演出・衣装:ヴァンサン・ブサール

ヴィオレッタ:中村恵理
アルフレード:マッテオ・デソーレ
ジェルモン:ゲジム・ミシュケタ
フローラ:加賀ひとみ
ガストン子爵:金山京介
ドゥフォール男爵:成田博之
ドビニー侯爵:与那城敬
医師グランヴィル:久保田真澄
アンニーナ:森山京子

東京交響楽団
新国立劇場合唱団

2022年3月22日 j.mosa