投げかけられた重い問い――濱口竜介『悪は存在しない』

冒頭、深い森の樹々が映し出される。森のなかを歩く人が仰ぎ見るであろう風景が、延々と。そして、一組の父娘が、この森を歩く。手をつないで、また、父が娘を背負うなどしながら。父は娘に、樹や花の名を教える。自然にいだかれた父親と小さな女の子。いい光景である。

父親は薪を割る。その薪を、軒下に積み上げる。貴重な燃料である。この光景は、私の幼い頃を思い起こさせる。昭和も20年代、戦後の混乱がようやくおさまりかけた頃である。私の父親も、よく薪を割っていた。そして、軒下にその薪を積み重ねた。風呂はもちろん、飯もその薪でたいた。水道はなく、井戸水である。夏の水の冷たさも懐かしい。

この映画の舞台、おそらく長野県諏訪の山中であろうが、水は貴重である。父親は、小川に湧き出る水をポリタンクに入れ、坂道を運ぶ。車に積みこむために往復を重ねて。村の蕎麦屋は、この水を使って調理する。そして水は、映画の展開の重要な要素になる。

坂本龍一が最後の舞台作品『TIME』で表現したように、水は生命の根源である。その大切な水が汚染の危機にさらされる。山の高原に、ホテルを併設したグランピングの施設が建設されようとしているのだ。都会と村、資本と自然、この二項対立は映画のひとつの主題である。

主人公の巧は、その両者を媒介する存在である。元々自然のなかで育った人間ではない彼は、必ずしも資本を否定することはない。資本は雇用を生み、ひょっとして、文明と自然を媒介できるかもしれないと、考える。それゆえに資本は、彼に接近したのだった。

資本が買収した土地は、鹿の通る道であった。そこに大きな施設ができれば、鹿はどこを通ればいいのか。また新しい道を見つけると、資本から派遣され男は言う。巧はそれに答えることはできない。しかし人を襲うことはない、と彼は断言する。手負いの鹿でない限りは。

父と娘の関係も、この映画のテーマのひとつだろう。娘は小学4、5年生か。成長盛りであり、思春期のとば口に差しかかっている。拘束を嫌い、自由を求める年ごろでもある。その娘が行方不明となり、村中が騒然となる。

日暮れにさしかかり、夕もやの立ちこめる広い草原が最後の場面である。想像を超える出来事で映画は終わるのだが、この情景をどう読み解けばいいのか。鹿の姿が見えるゆえに、鹿が通る道であろう。グランビルの施設が立つ予定の土地でもある。行方不明の娘がいて、彼女を探しにきた父親がいる。それに、彼を追いかけてきた資本派遣の男。ここには、物語のすべての要素が存在する。

全編を流れる低弦基調の音楽は、この映画の通奏低音である。複雑な物語を根底から支えている。重く哀しい響きは、主人公・巧の悔恨の想いをも表しているのか。自分はいったい何をしてきたのだろう、と彼は自らに問いかけているにちがいない。その問いは、観る者の心をもゆさぶる。本当に「悪は存在しない」のだろうか。

コロナ禍の助成金、ネット婚活、サラリーマンの悲哀など、現代社会の典型も巧みに組み入れられて、観客は物語のなかに引きこまれる。濱口監督の力量は、今回も十分に堪能できた。

2024年5月8日 於いてル・シネマ渋谷宮下

2023年日本映画
監督・脚本:濱口竜介
音楽:石橋英子
編集:濱口竜介、山崎梓
撮影:北川喜雄
出演:大美賀均、西川玲、小坂竜士、渋谷采郁、菊池葉月、三浦博之、鳥井雄人、山村崇子、長尾卓磨、宮田佳典、田村泰二郎

2024年5月28日 j.mosa