パレスチナ・イスラエルの平和を求めて――佐藤真『エドワード・サイード OUT OF PLACE』
レバノン南部が戦火にさらされている。イスラエルの、シーア派ヒズボラ討滅作戦である。ヒズボラの背後にいるイランがイスラエルにミサイルを撃ちこみ、イスラエルはまた報復の挙に出ている。中東は全面戦争の危機にある。遠く離れた日本ではあるが、石油を中東に依存している以上、国内にも懸念が渦巻いている。
レバノンは、地中海に面した、風光明媚な国である。私たち日本人には、日産自動車の元社長、カルロス・ゴーンの逃亡先として記憶に新しい。私にはそれ以上に、エドワード・サイードが眠りについている国として、印象に刻まれた国である。レバノンが困難な状況に追いこまれるなか、私は7月に観たドキュメンタリー映画『エドワード・サイード OUT OF PLACE』を思い出していたのだった。
エドワード・サイードは、パレスチナ出身のアメリカ人で、世界的に有名な文学研究・批評家である。大江健三郎とも親しく、政治には積極的に関わった。映画は、ベイルート郊外の、サイード家のかつての別荘を探すところからはじまっている。あたりは、地中海を望む、まことに美しい風景である。
別荘として使われた家は、老朽化が進んでいるとはいえ、健在であった。サイードは学生の頃、夏は避暑を兼ねてこの家に滞在したという。現在の所有者は不明だが、サイード家が別荘に使っていた頃も、借家であったことだろう。サイードの父親は文具商で財をなしたが、生涯不動産を購入することはなかったという。エルサレムの生家をイスラエルに奪われて以来、土地への信頼を失ったのにちがいない。
サイードは、1935年に、エルサレムで生まれた。映画は、彼の少年期の映像も映して、彼が裕福な家の生まれであることを表現している。広い邸宅のなかを無邪気に走り回るサイードの姿からは、活発で健康な少年であったことが伺われる。家族の幸福な生活は、イスラエルの建国で一変する。サイード家の邸宅は没収されたのだった。一家はエジプトのカイロに移住する。
故郷喪失の原体験は、その後のサイードの思想形成に大きな影響を与えたことだろう。文学批評の分野で業績を築き、世界的名声を得たあとも、パレスチナとイスラエルの紛争に関わることになる。パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長と共闘の関係を結ぶ。しかし、1993年、PLOとイスラエル間が「オスロ合意」に達すると、ふたりの関係は崩壊する。「オスロ合意」は、パレスチナ・イスラエル2国共存を協定の核としている。サイードは、ふたつの民族が共存する、ひとつの国を構想していたのだ。
サイードは1999年、ピアニストのダニエル・バレンボイムとふたりで、アラブ・イスラエルの若者で構成されるオーケストラ「ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団」を創設した。オーケストラ名はゲーテの『西東詩集』からとられている。晩年のゲーテはオリエントに憧れていたという。なお、バレンボイムはユダヤ系であり、ふたりは、このオーケストラの活動が、パレスチナ・イスラエル両民族の融和に資すことを願っていたはずである。
ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団は、サイードが2003年に68歳で死去したあとも、バレンボイムのもとで世界的な活動を続けている。音楽は平和の象徴であり、名曲を演奏することに民族の別はない。音楽において達成できることが、どうして現実の政治の世界では不可能なのか。サイードの無念を噛みしめながら、レバノン、ガザ、イエメン、ウクライナの平和を願わずにはいられない。
2024年7月16日 於いてキネマ旬報シアター
2005年日本映画
監督:佐藤真
企画・製作:山上徹二郎
撮影:大津幸四郎、栗原朗、佐藤真
編集:秦岳志
ナレーション:宝亀克寿
テキスト朗読:山川建夫
2024年10月6日 j.mosa