感情を揺さぶる、香り立つ情感――成瀬巳喜夫『乱れる』

いい映画は、テレビの小さな画面からでも、情感が溢れ出てくるものだと、改めて実感した。録りためてあった、成瀬巳喜夫監督の『乱れる』を改めて観たときに覚えた感慨である。それは主演の高峰秀子の、時に応じて豊かに変貌する表情が第一の要因なのだが、それだけではない。昭和39年頃の小さな街の風景、家業の酒屋の店先、北へ向かう列車の車内、最後の銀山温泉の遠景……。どの映像からも感情を揺さぶられる。

それに、比較的短いカット割りの的確さ。演じる俳優の表情が滑らかに受け渡され、テンポも快い。映像も音楽なんだと、新しい発見もしたのだった。香り立つ情感が音楽の流れに沿って映し出される。成瀬巳喜夫独特の世界である。

主役は、高峰秀子の他にあとひとり、加山雄三である。高峰演じる礼子は、新婚生活半年で夫に戦死される。そのあと18年間、ほとんど独力で夫の実家の酒屋を再興させる。夫のふたりの妹も嫁がせて、商売も順調にみえる。ただ、同居している義弟幸司の、所在ない日常は悩みの種。大学を出て就職したにもかかわらず、転勤の辞令が出たとたん会社を辞めてしまった。この、何を考えているのか分からない、快活で少し乱暴な義弟が、加山である。

加山雄三は、黒澤明の『赤ひげ』でも好演したのだが、それほどの俳優だとは思っていなかった。若大将シリーズは観たこともない。しかし、この映画では一味違った。彼の持ち味の、明るいぶっきら棒の感じが、ひたすら義姉を慕う若者の気持ちと不思議な調和をみせて、納得させられる。とりわけ、思いもかけず自らの気持ちを義姉に告白する場面は、ふたりの表情がアップでとえられて、映画史にも残る名シーンとなった。

義姉から、社会に甘えている、卑怯だと責められて、幸司は思わず本心を明かしてしまう。「僕は義姉さんと一緒にいたい、ただそれだけだ」と。19歳で結婚した礼子はいま37歳。幸司はその結婚時には7歳だったというから、25歳になっている。そしてこの告白から、ふたりの日常に混乱が生じる。「私も女ですから」という礼子の言葉が重みを帯びてくる。

この映画は、男女の魔法のような関係性を深く描いた、飛び切りのメロドラマである。しかし、それにとどまらない。背景の社会情勢を的確にとらえている。街の小さな商店が、台頭してくるスパーマーケットに押しつぶされようとしている。卵1個を11円で売っている食料品店は、5円で販売するスーパーには太刀打ちできない。店主は絶望して自殺する。ダイエーが創業したのは1957年。映画の背景は1963年である。社会は大きく変わろうとしていた。

幸司は、立地のいい酒屋をスーパーに転換することを考える。礼子をもちろん役員にと思っていたが、親族は反対する。彼らは、礼子が家を出ること、つまり再婚することを願っていたのだ。幸司の本心は礼子との結婚である。しかし、女性が上の、12歳の年の差、しかも兄の妻であった女性である。当時の社会では受け入れられるのは難しい。幸司の反対を押して、礼子は家を出る決心をする。

北の故郷に帰る礼子に幸司は付き添う。旅は男女の仲を近づける。道中での礼子の突然の心変わり。ここは短いロードムービーだが、私は、彼女の心の動きを自分のこととして感じたものだ。途中下車して、ふたりは銀山温泉に向かう。川を挟んで宿の立ち並ぶ古い温泉の街は、ふたりの心象風景のようだ。この映画は悲しい結末を迎えるのだが、ふたりの心がついに結ばれたことで、観る者は納得せざるをえない。ふたりの幸せは、この世ではないどこかでもたらされるであろうと。

2024年9月5日 NHKBSで放映

1964年日本映画
監督:成瀬巳喜男
脚本:松山善三
製作:成瀬巳喜男、藤本真澄
音楽:斎藤一郎
撮影:安本淳
編集:大井英史
出演:高峰秀子、加山雄三、三益愛子、草笛光子、白川由美

2024年10月24日 j.mosa