詩とは何か、ネルーダは語る――マッシモ・トロイージ主演・脚本『イル・ポスティーノ』
世界の、おそらく最長老の指揮者、ヘルベルト・ブロムシュテットは、97歳の誕生日を、オーストリアの聖フローリアン修道院で迎えた。2024年7月11日のこと。バンベルク交響楽団のメンバーに温かく祝われたあと、その修道院でブルックナーの『交響曲第9番』を指揮して、聴衆の喝采を受けた。
スウェーデンのイエーテボリ大学図書館には「ヘルベルト・ブロムシュテット・コレクション」が設けられている。彼はそこに膨大な書籍群を寄贈していて、それらは図書館の3分の1を占めるという。コレクションの書棚から本を取り出しながら、彼は言う。「本は私の友だちです。なかでも詩に興味があります。4行ほど抜き出せば、それについて1週間瞑想できます。詩は心を豊かにしてくれます」(10月21日放送「音楽が奏でられるとき魂は揺さぶられる〜ヘルベルト・ブロムシュテット〜」より)。
詩の世界とは縁の薄い、散文気質の私は、ブロムシュテットのその言葉を聞いて、詩と音楽について想いをめぐらすことになった。ちょうどその時である、映画好きの友人から『イル・ポスティーノ』を観るようにと言われたのは。30年前の映画だが、4Kデジタルリマスター版が上映されているので、もし未見なら観てほしいと。友人の言葉に誘われて観た映画は、まさしく、詩への大いなる讃歌であった。
『イル・ポスティーノ』では、私以上に詩とは無縁の田舎の若者が、詩とは何かを教えられる。教師は、当時すでに世界的に有名であったパブロ・ネルーダである。彼は政治的な理由で故国チリを追われていた。1951年、フランスに入国を拒否されたあと、彼は辛うじてイタリア南部の小さな島にたどりつく。そこでしばらく亡命生活を送るようになるのだが、その島に住む平凡な青年が、映画の主人公マリオである。
マリオは、漁に出るだけの意気地も体力もない。しかし、漁師以外にはこの島に仕事というものはない。ぶらぶらしているマリオに、父親は不満である。ふたりの間に会話も成り立たない。そこにネルーダがやってきた。マリオはそのネルーダに郵便物を届ける仕事にありつく。
詩など読んだこともないマリオであったが、相手は世界的な詩人である。彼はサイン欲しさに、ネルーダの詩集を買ったりもする。また、ネルーダの日常にはひそかな好奇心を抱く。しかし毎日は、郵便物の受け渡しという単調なルーチン。その繰り返しのなか、日が経つにつれて、2人の間に友情らしきものが芽生えてくる。そしていつしか、マリオのなかに、詩についての興味がわいてくるのだった。
詩の本質は「隠喩(メタファー)」だとネルーダは明確に言う。なるほどと、映画を観る私は納得したのだが、マリオには何のことだか分からない。しかし、ネルーダの朗唱する詩に、彼は酔ってしまう。それは彼にとって、意味を超えた「音楽」だったのだ。
マリオを演じたマッシモ・トロイージが、とにかく素晴らしい。ひ弱で、何の取り柄もない島の若者が、詩を体感し、恋をして、政治にも目覚める。その過程は、ユーモアに満ち、スリリングでもあり、観る者は彼と一体感を抱かないわけにはいかない。酒場の女性に一目惚れするときの彼の表情! 呆然と女性を見つめるその瞳は、まさしく恋の魔法をかけられた若者のそれであり、この場面だけでも、トロイージに名優の誉を授けたい。
圧巻は、島を去ったネルーダに送ろうと、島の風景を録音する場面である。打ち寄せる波の音。岸辺の草々を揺する風の音。夜空の星々の輝きをも録音しようとする。この映画そのものが「詩」であったのだと、涙を堪えることができなかった。トロイージが、映画クランクアップ12時間後に亡くなったことを知っていたゆえに、いくつもの島の音を録音するその姿は、彼のメタファーそのものであると認識したのだった。
2024年11月18日 於いて恵比寿ガーデンシネマ
1994年イタリア・フランス映画
監督:マイケル・ラドフォード
脚本:マイケル・ラドフォード、マッシモ・トロイージ、フリオ・スカルペッリ、アンナ・パヴィニャーノ、ジャコモ・スカルペッリ
出演:マッシモ・トロイージ、フィリップ・ノワレ
音楽:ルイス・エンリケス・バカロフ
撮影:フランコ・ディ・ジャコモ
編集:ロベルト・ペルピニャーニ
2024年12月1日 j.mosa