高校生の純愛がもたらすもの――村山新治『故郷は緑なりき』
村山新治という東映の映画監督を私は知らなかった。すでに2021年に98歳で没しているのだが、彼の映画の大回顧展がラピュタ阿佐ヶ谷ではじまっている。その情報を、監督の甥にあたる古くからの友人から聞いて、初日の9日に阿佐ヶ谷まで出かけた。そして新鮮な感動を覚えたのだった。
鑑賞した映画は、友人の薦めもあって、1961年の作品『故郷は緑なりき』。時代背景は、日本の貧しさがまだ目立つ、1951・2年か。学制改革があって、新制高校が誕生してまだ数年しか経っていない頃である。映画は、この時代の、高校2年生の純愛物語。そのような青春映画に、なぜ惹かれることになったのか。
何よりもモノクロの映像が美しい。ロケが中心で、四季の移り変わりも丁寧にとらえられている。舞台は新潟県の柏崎と長岡であるが、北国の野山の雪景色など、心に焼きつく風景だ。デジタルを駆使する現在の映画とは次元が違うように感じられる。1年間に何本も撮らなければならなかった映画監督が、あのように細やかな心配りで作品をつくっていたとは!
それに、時代への目配りも怠りない。男子学生の兄は、柏崎の港から闇で魚を手に入れ、それを売り捌いて生計を立てている。兄夫婦と父親、それに高2の彼の4人家族の生活は貧しい。戦後5、6年は経ているのだが、食糧事情も不安定な社会がよく表現されている。
あの時代、男子高校生は下駄をはいていた! 実家が下駄屋であった私は、そのことに大いなる関心を持った。私たちの時代には、下駄はすでに時代遅れになっていて、実家の売上も靴の方が多くなっていたにちがいない。しかし家の一隅には、手仕事の下駄工房が存在していたことも思い出した。もう使われることもなくなっていたのだが。
さて、映画の主演女優は佐久間良子。彼女は東映の女優だったのだ。冒頭から彼女のアップが映し出されて、ああ、こんなにもきれいな人だったのかと、感じいった。撮影当時彼女は22歳。東映に入ってまだ3年目くらいか。しかしウィキペディアによると、富島健夫原作の映画化を自ら希望したという。その芯の強さは、暴力学生を小気味よく拒絶する主人公の描かれ方にもよく反映されている。あとひとりの主演、水木襄も好演。三国連太郎、花沢徳衛、加藤嘉など、芸達者が脇を固めている。
物語は直球の、高校生の恋物語である。ふたりの恋人をめぐる高校当局の対応が面白い。同じ高校の生徒が心中事件をおこしたこともあり、学校は校長をはじめ神経を尖らせている。そしてふたりは、周囲に知られることが問題となる事態に追いこまれる。ふたりの担任は彼らを呼んで、説諭する。君たちはまだ若い。これから様々な経験をする。いまの感情も変化をするはずである。早まってはいけない。ふたりの恋情をさまそうと諄々と諭すのだが、もちろんふたりは聞きいれるはずもない。
そもそも恋愛は年齢を問わない。歳を重ねて感情が成熟すればいいのだが、残念ながらそうはいかない。80歳を過ぎて、高校生のような初々しい恋をする老人もいる。高校生の恋も老人の恋も変わりがないとすれば、主人公たちの担任の言葉は説得力を持たないことになる。私は幾組かの同級生のカップルを思い出していた。彼らは高校・大学を卒業してから結婚に至り、現在もふたりの生活を楽しんでいるようだ。
主人公たちは、高校卒業後も恋情を育む。しかし、女性の病死がふたりを引き裂く。ふたりの交流は短く、悲劇に終わってしまうのだが、その体験は何ものにも代え難い豊饒さを有していたことだろう。映画はそのことを雄弁に物語っている。
上映館のラピュタ阿佐ヶ谷も印象深い。街中の木立のなかにあり、48席の小さな映画館である。古色蒼然としたビルそのものにも趣があり、懐かしい雰囲気を漂わせている。1950・60年代の日本映画中心のプログラムのようで、そのブレない姿勢も好ましい。
2025年3月9日 於いてラピュタ阿佐ヶ谷
1961年日本映画
監督:村山新治
脚色:楠田芳子
原作:富島健夫
撮影:林七郎
音楽:木下忠司
編集:田中修
出演:水木襄、佐久間良子、大川恵子、加藤嘉、中山昭二、三國連太郎、花沢徳衛
2025年3月11日 j.mosa