トラクター時速8kmのロードムービー――デイヴィッド・リンチ『ストレイト・ストーリー』

この映画は、今年の1月に78歳で亡くなったデイヴィッド・リンチの、53歳の時の作品である。彼は「カルトの帝王」などと呼ばれている特異な監督であるゆえ、鑑賞にはちょっと身構える必要があった。それゆえ、ダビングしたまましばらく放置しておいたのだった。しかし、これがリンチの作品か、と驚くような正攻法の映画で、人は色んな顔をもつ複雑な存在なんだと、奇妙な感慨をもったものだった。

しかしながら、数あるロードムービーのなかでも、この作品はやはり特異なものといわねばならない。73歳の主人公アルヴィンの移動手段は、車でも列車でもなく、また徒歩でもなく、トラクターなのである。トラクターは車といえないこともないが、彼が乗るのは時速8kmの小さなトラクターである。道に行き交う大型のトラクターに比べると、おもちゃと呼んでも差し支えはない。腰が悪く、糖尿病の気があり、肺気腫かもしれない老人が乗るには、まあ、相応しいといえなくはないのだが。

主人公を演じるリチャード・ファーンズワースがなんとも味わい深い。頑固一徹ながら生活の知恵もあり、どこか憎めないアルヴィンを、存在感豊かに演じている。登場した冒頭から、私はすっかり彼のフアンになってしまった。日に焼け、白い髭に覆われた農民の顔でありながら、そこはかとなく哲学者の風貌がある。カウボーイハットを被った彼はまことにカッコいい。

アルヴィンは腰を痛めていて、一度転んでしまうとひとりでは立ち上がれない。この日も倒れて大騒ぎになり、同居している娘に説得されて医者に行くことになる。医院の前まで来ると、娘の手を振り切って帰ろうとする。医者が嫌いなのである。医者は3つも4つも病名を挙げて、生活の自粛を言いわたす。煙草などもっての他だと。彼はそれを聞き流し、帰宅すると太い葉巻を美味そうに吸うのだった。医者の忠告を受け入れたのは、左右2本の杖だけ。これがなければ歩くことができない。

そんな彼が、500km以上も離れた土地に住む兄を訪れる旅をしようとする。10年前に喧嘩別れしたままの兄が脳梗塞で倒れたのだった。目が悪く車は運転できない。バスも通わない辺鄙な土地である。彼としてはトラクターで行くほかはない。後ろに手づくりの小さなトレーラーを繋げて。街の仲間みながそうであるように、娘も反対する。そんな体でどうして長旅ができるのか、と。

娘のローズを演じるシシー・スペイセクも素晴らしい。少し足りないところがあり、吃音気味の一見冴えない女性なのだが、心の美しさが垣間見える。役所によって4人の子どもから引き離されている悲しみも抱えている。老いた父親とのふたり暮らしも、コミュニケーションはなかなか難しい。しかし、家族こそ、世間の荒波から避難できる港なのだ、ということを実感させてくれるのだ。自分の力で兄に会いに行きたい、という父親の思いを一番理解するのも、ローズであった。

アイオワ州ローレンスからウィスコンシン州マウント・ザイネンまで、560kmの旅である。2ヶ月以上はかかる。小さなトラクターが進む舗装道路の周囲には、広大な農地が広がっている。大型トラクターが作業するその光景は絵に描いたように美しい。夜は畑で野宿である。焚き火でウインナーソーセージを焼く。

家出した若い娘、ロードバイクでツーリング中の若者たち、トラクターの故障で世話になった家の主人たち……。彼らとの会話から、アルヴィンの現在、過去、そして思いが立ち上がる。歳をとって良いこと、悪いことを問われて、彼は答える。良いことは、細かいことを気にしなくなったこと、最悪なのは若い頃を覚えていることだ、と。

若い頃に戻りたい、という老人がいる。ゲーテのファウストなどはその典型で、そのために魂まで売ってしまう。私はファウストをよく理解できない。あの、霧のなかにいるような不安な青春時代に戻りたいなど、考えたこともない。よって、アルヴィンの言葉は自分のことのように理解できる。彼は第2次世界大戦でヨーロッパに派遣された。有能なスナイパーだったのだ。そして、間違って戦友を撃ってしまう。戦争体験は、彼をして、酒に溺れさせることになったのだった。現在、酒を絶っている理由もよく分かる。

アルヴィンは星空を見上げることが好きである。体験した苦労や悲しみが小さく思えるのだった。娘とも、再会した兄とも、ともに星空を見上げる。そこに流れるギターの調べ。美しく、懐かしく、思わず涙する。

映画のタイトルは「ストレイト・ストーリー」である。アルヴィン・ストレイトの物語ということであろうが、「ストレイト」という言葉に映画の本質が表現されている。心に染み入るストレイトな映画も、本当にいいものだ。ちなみに本作は、実話を元に制作された。

主役のリチャード・ファーンズワースは、この映画が完成した翌年、2000年に80歳で亡くなっている。この名作が最後の作品として遺されたことは、彼にとっても、また私たちにとっても、ことのほかの幸せだった。

2025年4月28日 BS松竹東急で放映

1999年 アメリカ映画
監督:デイヴィッド・リンチ
脚本:ジョン・ローチ、メアリー・スウィーニー
出演:リチャード・ファーンズワース、シシー・スペイセク、ハリー・ディーン・スタントン
音楽:アンジェロ・バダラメンティ
撮影;フレディ・フランシス

2025年5月15日 j.mosa