絶望の深淵と愛の深さと――エンリケ・マッツォーラ指揮『蝶々夫人』
オペラの終幕近く、ティンパニーの大音響がホールに響きわたる。初台の新国立劇場の4階の席には、とりわけその音が鮮明に聴こえたはずである。音を味わうには、ホールの最上階にしくはない。この劇場の4階中央付近の席は、私の定席である。
それはとにかく、『蝶々夫人』の上演で、こんなにもティンパニーの音が巨大に響いたことはかつてない。その音響に圧倒されながら、私は、指揮のエンリケ・マッツォーラの意図をはかりかねていた。
確かに『蝶々夫人』の幕切れは劇的である。心に想い続けてきた男に裏切られ、愛する子どもとも別れなければならない。親戚縁者も離れてしまった。すべてを失った蝶々さんは、父親の形見の短刀で自害する。その絶望と哀しみの深さが、ティンパニーの大音響になったのだろうか。
演出の栗山民也は、蝶々さんの悲劇は自業自得だという。宗教を捨て、日本人であることを捨て、アメリカ人にもなれない。すべてを捨て、何者にもなれないのが蝶々さんの悲劇だ、と。有名なアリア「ある晴れた日に」は、そんな自分を問い続ける狂気のアリアだとも。
このプロダクションは、2005年から8回も上演を重ねている、いわば新国立劇場を代表する舞台である。私ははじめて鑑賞して、感銘を受けた。装置は極めてシンプルで、日本的な要素はほとんど見られない。緩やかなカーブを描いた長い階段の下が蝶々さんの住まいで、追い詰められた彼女の立ち位置を表している。その階段を蝶々さんがゆっくりと降りてくる登場の場面は、幻想的で美しい。
出演者の所作ひとつひとつが自然で、日本人である私たちが見ていても違和感がない。西欧の舞台でよく目にする、いわゆるジャポニズム的な要素はまったくない。それゆえ、人間としてのドラマが、くっきりと浮かび上がってくる。20年間も上演され続けているのも、もっともだと思う。
栗山は、この舞台に、蝶々さんの自業自得の悲劇を展開させた。しかしながら、音楽は、演出家の意図を超える。「ある晴れた日に」は、狂気のアリアなどではない。3年間も逢えない恋しい人を想って歌う、愛のアリアである。限りない不安を伴うのも、愛の深さゆえであろう。
蝶々さんを日本人妻としか見ていないピンカートンの想いは、はなから真実味を欠いている。3年間も音沙汰がないのはその現れであり、蝶々さんの周囲の者たちもそのことを分かっている。しかし蝶々さんはピンカートンを信じている。その愛は、報われること少ないが、真実そのものである。
ピンカートンは、妻をともなって長崎を再訪する。蝶々さんとの子どもを引き取るためである。しかし彼は、蝶々さんの顔を見ることができない。ただ、逃げるだけである。すべてを失って自害する蝶々さんと、逃げることしかできないピンカートン。オペラの幕切れの、耳を弄する大音響は、何を意味するのか。そして、マッツォーラ指揮下のティンパニーの尋常ならざる響きは?
『蝶々夫人』は、やはり愛のオペラである。真実の愛を貫いた、年若い女性の物語である。たとえ裏切られようとも、心から愛した者が勝ちである。プッチーニの音楽が、そして、マッツォーラの指揮が、そのことを物語っている。あの最後の響きは、絶望の限りない深淵と、同時に、底知れぬ愛の深さを象徴している。私は『蝶々夫人』こそ、プッチーニの最高傑作だと思う。
2025年5月24日 於いて新国立劇場
指 揮:エンリケ・マッツォーラ
演 出:栗山民也
蝶々夫人:小林厚子
ピンカートン:ホセ・シメリーリャ・ロメロ
シャープレス:ブルーノ・タッディア
スズキ:山下牧子
ゴロー:糸賀修平
ボンゾ:妻屋秀和
ヤマドリ:吉川健一
ケート:佐藤路子
合 唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
2025年6月12日 j.mosa