劇的迫力に満ちた4時間
― ベルリオーズ『トロイアの人々』

 1月から2月にかけて立て続けに珍しいオペラを観た。マスカーニの『イリス』(1月30日、東京芸術劇場)、シューマンの『ゲノフェーファ』(2月4日、新国立劇場中ホール)、そしてベルリオーズの『トロイアの人々』である。『ゲノフェーファ』は舞台での日本初演、『トロイアの人々』は演奏会形式ながら紛れもなく日本初演である。『イリス』はジャポニズムのなかで創られた作品で台本が劣悪(オオサカ、キョウトという悪人が登場し、舞台のひとつが吉原)、『ゲノフェーファ』はシューマンらしく悩める登場人物が特徴的だが、いかんせん劇としての面白みに欠け、印象的なアリアも聴くことができない。いずれも上演機会が少ないのももっともだと思われた。しかしゲルギエフの指揮した『トロイアの人々』は圧倒的な迫力で、オペラの醍醐味を伝えてくれた。なぜこれほど面白いオペラがいままで上演されなかったのかと不思議に思ったものだ。

『トロイアの人々』はヴェルギリウス(BC.70~BC.19)の叙事詩『アエネーイス(アエネアスの歌)』をもとにしている。第一部(第1・2幕)は〈トロイアの陥落〉と名付けられてトロイア戦争の終末を描き、〈カルタゴのトロイア人たち〉と題する第二部(第3・4・5幕)は、陥落するトロイアを逃れたエネ(アエネアス)の、カルタゴの女王ディドン(ディド)との恋を中心とする。ベルリオーズにとってヴェルギリウスは、シェークスピアと並ぶ憧憬の対象であったらしい。『アエネーイス』は幼い頃から父親に読み聞かされてきた物語であったのだ。

『トロイアの人々』の背景をなすトロイア戦争は古代ギリシアの伝説のひとつだが、じつに不可思議な始まり方をする。増えすぎた人間を減らすために戦争を起こすというゼウスの策略だったのである。人口が幾何級数的に増え続けている現代世界においては、その悪魔的な合理主義は現実味を帯びて見えてくる。また戦いの引き金となる事件も人間臭く、戦争の愚かしさを伝えている。

「もっとも美しき女神に」と宴席に投げ入れられた黄金のリンゴをめぐって3人の女神が争い、裁定を委ねられたトロイアの王子パリスはアフロディテにリンゴを渡す。ヘラは世界の支配権を約束し、アテナは戦いの勝利を提供しようとするが、世界一の美女を与えようというアフロディテの提案の魅力はそれらに勝るものであった。しかし当世随一の美女ヘレナはすでにスパルタ王メネラオスの妃だった。パリスはヘレナを奪い、これを原因としてトロイア戦争が勃発する。

さて『トロイアの人々』の第1部は、10年間続いたそのトロイア戦争の終末が舞台となる。壮烈な戦死をとげた英雄ヘクトールの妹、カサンドル(カサンドラ)が主役である。勝利の美酒に酔いしれるトロイアの人々のなかにあって、予知能力を有する彼女は破滅を確信する。群衆はもちろん、許嫁ですら彼女の言動を信じない。崩れゆく現実が見えていながら為すすべを持たないカサンドルの苦しみを、ムラーダ・フドレイは劇的に表現した。また、トロイアの女たちの集団自決の場面は第一部最大の聴きどころであるが、合唱団の迫力は凄まじいばかりである。

ヘクトールと並び称される勇将エネは、神々の加護もあり、多くのトロイア人を率いて戦いを生き延びる。イタリアを目指して航海するものの、北アフリカのカルタゴに漂着し、そこの支配者ディドンと恋に落ちる。その顛末が第2部の主要部分を占めるのだが、ここの主役はまたしても女性である。恋と政治との狭間で苦悩するディドンを歌って素晴らしいのは、メゾソプラノのエカテリーナ・セメンチュク。その強靭な声は当夜の白眉であった。第一部のフドレイといい、ロシアにはいったいどれだけの優秀な女性歌手が存在するのだろうか。エネとの長大な愛の二重唱はトリスタンとイゾルデのそれを彷彿とさせ、心に染みた。

ローマの建国を宿命づけられているエネは、後ろ髪を引かれる思いでカルタゴをあとにする。それを知ったときのディドンの怒りと悲しみ。その激しい感情の表出は、『魔笛』の夜の女王、また『ローエングリン』のオルトルート、『マクベス』のマクベス夫人を思い起こさせる。自害の場面もまことに劇的である。1000年後に出現するカルタゴの英雄ハンニバルの名を叫びつつトロイア人を呪い、ローマの繁栄を幻視するなかで絶望の淵に落ちる。セメンチュクの独壇場である。

しかしながら、14日の上演の立役者は、なんといってもゲルギエフだろう。途中20分間の休憩をはさんだだけの約4時間の長丁場を、少しの緩みも見せず演奏しきった。指揮棒を持たず、いくぶんギクシャクした腕の動きで音楽を伝えるのだが、舞台側面の向かって右上段の席からはその指揮ぶりがよく見える。開かれた両手の指が痙攣するように小刻みにふるえる。その動きにわずかな変化が認められると、直後に音楽は微妙な変化を遂げる。そしてその姿勢に極端な動き生じると、ベルリオーズの壮大な音楽が鳴り響く。精妙かつ力強いオーケストラが素晴らしい。『トロイアの人々』の劇的で勇壮な音楽は、ゲルギエフにこそふさわしい。

《トロイアの人々》
2011年2月14日 サントリーホール

エネ:セルゲイ・セミシュクール
カサンドル:ムラーダ・フドレイ
ディドン:エカテリーナ・セメンチュク
アンナ:ズラータ・ブリチョーワ
コレープ:アレクセイ・マールコフ
アスカーニュ:オクサナ・シローワ
ヒュラス:ディミトリー・ヴォロパエフ
パンテ:ニコライ・カメンスキー
ナルバル、プリアムス他:ユーリー・ヴォロビエフ
マリインスキー劇場管弦楽団・合唱団
指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ

作曲:エクトール・ベルリオーズ
原作:ヴェルギリウス『アエネイス』
台本:エクトール・ベルリオーズ

2011年2月28日 j-mosa