〈喜びの島〉は存在するか?
         ―アンゲロプロス『シテール島への船出』

 酷暑の8月末、NHKのBSでテオ・アンゲロプロスの作品が何本か放映された。このギリシアの巨匠について知るところはきわめて少ない。代表作と言われている『アレキサンダー大王』は未見だし、世界的な評価が高い超大作『旅芸人の記録』の記憶もはなはだ覚束ない。その他数本は観ているはずだが、私の心に確と刻印された作品は少ないのである。しかし今回放映された作品のひとつ『シテール島への船出』は、深く心打たれるものがあった。

映像から風土性が立ち昇ってくる映画には優れた作品が多い。この『シテール島への船出』もそのうちのひとつだろう。少し前に取り上げた『パンドラの箱』ともその風土性は似通っていて、それはギリシアがトルコと隣接しているゆえのことだろうか。波静かな海に面した、近代化されつつある都市。それが自然を侵食する彼方には山々が聳えている。2つの映画の舞台はともに、その都市と山である。

『パンドラの箱』では、山は現代文明に対峙する自然豊かな存在として描かれていた。しかし本作品の山は、すでに下界の俗世間の垢に染まりつつある。山全体がスキー場として開発されようとしているのだ。32年ぶりにロシアの亡命から帰国した主人公スピロは、ただ一人それに反対する。その姿はまるでドン・キホーテだが、しかし、自然破壊と開発はこの映画の主なテーマではない。

この映画が製作された1984年から遡ること30数年、即ち第二次大戦直後、ギリシアは左右両派の対立で内乱の状態にあった。山深い村でもその対立は激しく、混乱は51年まで続く。その年右派が政権を握り、スピロはロシアに亡命する。この映画は、そのスピロがロシアから帰国するところから始まる。81年の10月にはギリシア初の社会主義政権が誕生しているが、スピロが帰国したのはおそらくこの頃である。もっともこの映画では、以上の歴史的な背景は一切省略されている。観る者には、物語の展開に従ってその背景がおぼろげに理解されてくるにすぎない。

ユリシーズよろしく長年の放浪から帰還したスピロを待ち受けているのは、息子のアレクサンドロスと娘のヴーラ、それに妻のカテリーナである。彼らはすでに山を下り、都市での生活が長い。スピロを隔てる32年という歳月を彼らがいかに受け止めるのか。この映画の主要なテーマは「時間」ということになる。

歓迎に集まった昔馴染みたちとも家族とも意思が通じず一人ホテルに泊まったスピロは、翌日アレクサンドロスの車で、妻、娘ともども山に向かう。彼らの山の家はまだ存在しており、開発業者への売却話が進んでいた。山全体をスキー場にしようというこの売却話は、1軒でも反対があればご破算になる運命にあった。スピロは反対する。荒れるに任せてあった自らの土地に一人鍬を揮う。

戦後の動乱期、スピロたちは山に立てこもり権力に抵抗した。多くの村人たちにとっては禍のもとでしかなかったスピロが、32年を経て、再び混乱を村に持ち込むことになったのだ。娘は父親を勝手だと責める。彼が亡命した後いかに母親が苦労したかを物語る。ロシアでも子どもを二人儲けているスピロは一言もない。しかし抵抗をやめるつもりはない。そんなスピロに、妻カテリーナは寄り添う決心をする。スピロの山への愛着は32年の歳月を無視するものであったが、カテリーナのスピロへの思いもその歳月を超越したのだった。

しかし戦後30数年という歴史は、その間不在のスピロの力及ぶところではなかった。雪の激しく降る日、スピロとカテリーナは村を追放される。国籍のないスピロは、ギリシアという国からも追放される運命にある。ソ連行きの船に彼を乗せようとして失敗し困り果てた当局は、小さな浮桟橋にスピロを乗せ沖に係留する。カテリーナはその浮桟橋で彼と行動を共にしようとする。一夜明けた小雨の降る朝、二人は係留の綱を解き放ち、沖に向けて船出する。明日をも知れぬ船出であるのだが、二人の決意は固い。シテール島、あるいは〈喜びの島〉に向けて旅立ったのだろうか。

シテール島は海で生まれた美と愛の女神アフロディテ(ヴィーナス)が最初に上陸した島だと言われている。ギリシア名で「キティラ」、フランス語読みで「シテール」という。ペロポネソス半島南端のラコニア湾の沖合に浮かぶ小さな島である。ギリシア神話では愛と快楽の島ということになっている。この神話に材を求めた絵画作品で有名なのがヴァトーの《シテール島への船出》である。そしてドビュッシーはこのヴァトーの作品に霊感を得て《喜びの島》なるピアノ曲を作曲した。私は残念ながら未聴。

身勝手な父親を許すことができなかった娘のヴーラは、身体の感覚しか信じることができず、行きずりの男と刹那的なセックスを繰り返す。成功した映画監督である息子アレクサンドロスも、その家庭に平和があるようには見えない。社会に対しても確たる態度をとることができず、親の行動をただ見守るだけである。〈喜びの島〉が彼らの想念に浮かんでくることは、まずないのであろう。アンゲロプロスはこうして、私たちの時代の不幸をも描いたのである。

1984年 ギリシア・西ドイツ・イギリス・イタリア
監督・脚本:テオ・アンゲロプロス
脚本:タナシス・ヴァルティノス、トニーノ・グエッラ
撮影:ヨルゴス・アルヴァニティス
音楽:ヘレン・カレンドルー
出演:ジュリオ・ブロージ、マリー・クロノブルー、マノス・カトラキス、ドーラ・ヴァラナキ

2010年9月3日
j-mosa