オペラ上演史に残る父親像
――ドミンゴ主演の『シモン・ボッカネグラ』

 古希を来年に控えたドミンゴが、このところ新しい冒険に挑んでいる。このコラムでも紹介したが、2008年にはバロック・オペラ(ヘンデルの『タメルラーノ』)に登場し、つい数週間前にはバリトン歌手ドミンゴが誕生した。ヴェルディの『シモン・ボッカネグラ』でタイトル・ロールを演じたのである。そのニューヨーク・メトロポリタン歌劇場での上演は早くからアナウンスされ、実況録画が東京でも上映されると聞いて、心待ちにしていた。で、上映の初日、2月27日に新宿ピカデリーまで足を運んだ。

 ドミンゴは周知のように、スペイン出身の世界的なテノール歌手である。ヴェルディをはじめとするイタリア・オペラはいうに及ばず、『カルメン』などのフランス・オペラも当然のこと、ワーグナーではバイロイト音楽祭にも登場した。はてはチャイコフスキーにまで至り、彼の歌わないテノールの役はないというほどの万能のスターである。その彼がバリトンの難役、シモン・ボッカネグラに挑戦したのだ。

 女性への恋、娘への愛、そして政治家としての矜持と苦悩、シモン・ボッカネグラはそんな、男としての多様な人生を歌わなければならない。ドミンゴがこの役を歌うことで、私ははじめてこのオペラが理解できたような気がする。悲哀に彩られた宿命の人生、それでも生き続けなければならないシモンに、ヴェルディは作り上げようとしてかなわなかったリア王の姿を投影しているのだ。ドミンゴの深いバリトンの声と自在の演技はリア王そのもの。圧巻というほかなかった。  

 さて私はいままで、『シモン・ボッカネグラ』を、『リゴレット』『トロヴァトーレ』『ラ・トラヴィアータ』に続くヴェルディ中期の作品と理解していた。しかし今回の上演を観るに及んで、それは間違っているという思いを深くした。初演は1857年、そういう意味では確かに中期の作品である。しかしそれは散々な失敗で、大幅に手を加えられたものが24年後の1881年に再演された。現在上演されているものはこの改訂版のほうである。年代的にいうと『アイーダ』(1871年)と『オテッロ』(1887年)の中ほどの時期にあたり、間違いなく後期の作品ということになる。  

 この作品は、人間の声と管弦楽が緊密に結びつき、きわめて濃密な演劇空間を作り上げている。聴かせどころのアリアはほとんどなく、その分演劇性が高められている。これはヴェルディの後期作品の特徴で、いわばワーグナーの楽劇に近づいている。しかしそこはイタリア・オペラ、ベル・カントの伝統はしっかりと受け継がれている。『シモン・ボッカネグラ』を通底する深く哀しい抒情や激しい感情の表出は、ワーグナー作品のどこを探しても見当たらない。  

 シモン・ボッカネグラは実在の人物である。ジェノヴァ共和国の初代統領(ドージェ)で、1339年にその地位についた。14世紀は教皇の権威が失墜しつつあり、いわば西欧的中世の解体期にあたる。ジェノヴァでも貴族が教皇派と皇帝(神聖ローマ皇帝)派に分かれ、さらに平民派がこれに加わり、勢力争いを繰り広げた。シモンはこの政治状況のなかで苦悩することになる。同じく歴史的事実に基づいた『仮面舞踏会』(1859年)や『ドン・カルロ』(1867年)同様音楽的規模は大きく、テーマのひとつが統治者の政治的苦悩であることも共通している。  

 ヴェルディはある意味で政治的人間である。1861年にイタリアが王国として統一されたときの最初の国会議員で、5年間務めた。それにヴェルディの青壮年期は、イタリア統一運動(リソルジメント)の盛期と重なる。はじめて成功を博した3作目のオペラ『ナブッコ』(1842年)中の合唱曲「行け、我が想いよ、黄金の翼にのって」は、リソルジメントのなかで民衆の圧倒的な支持を受け、イタリア全土で歌われたという。そんなヴェルディの政治的な体験が、『シモン・ボッカネグラ』に反映されていないわけはないであろう。  

 とはいえ、これは愛のオペラでもある。父親の愛を描いて、これほどの深みを持ったオペラは他に存在しないだろう。25年間も行方不明であった娘に再会したときの喜び、その娘が自分の政敵を愛していることを知ったときの苦しみ、そして、巡り会ったばかりの娘に永遠の別れを告げなければならないときの哀しみ。音楽は、激しく、哀しく、またたとえようもなく美しい。ドミンゴ以外の誰が、このシモンの苦悩を歌うことができようか。まさにオペラ上演史に残る父親像だと思う。  

 この上演で素晴らしいのはドミンゴだけではない。第1幕で唯一といっていいアリアを歌うピエチェンカは、強く美しいアメーリアを好演したし、ガブリエーレ役のジョルダーニもその一途さに心打たれた。ベテランのモリスは貫禄十分、ドミンゴのシモンに対抗し得るフィエスコだった。そして指揮のレヴァインは、メトロポリタン歌劇場管弦楽団の底力を十二分に発揮した。いささか硬めの、筋肉質のオーケストラの響きが、ヴェルディにはよく合っている。伝統的な演出も好ましく、総じてきわめて水準の高い『シモン・ボッカネグラ』であった。

2010年2月6日 メトロポリタン歌劇場
シモン・ボッカネグラ:プラシド・ドミンゴ
マリア・ボッカネグラ(アメーリア・グリマルディ):エイドリアン・ピエチェンカ
ガブリエーレ・アドルノ:マルチェッロ・ジョルダーニ
ヤーコポ・フィエスコ(アンドレーア・グリマルディ):ジェイムズ・モリス
メトロポリタン歌劇場管弦楽団・合唱団
指揮:ジェイムズ・レヴァイン
演出:ジャンカルロ・デル・モナコ

作曲:ジュゼッペ・ヴェルディ
原作:アントニオ・ガルシア・グティエレス
台本:フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ
台本改訂:アッリーゴ・ボーイト

2010年3月1日 j-mosa