華麗なるオペラ・セリアか?!
――新国立劇場の『チェネレントラ』

このひと月、面白いオペラを立て続けに観た。『ムチェンスク郡のマクベス夫人』(ショスタコーヴィチ)、『ポッペアの戴冠』(モンテヴェルディ)、そして『チェネレントラ』(ロッシーニ)である。いずれも新国立劇場の出し物である(『ポッペア』だけは中劇場)。『マクベス夫人』をこの欄で報告しようと思っていると、『ポッペア』を観る時期が来て、どちらを書こうかと迷っているうちに、『チェネレントラ』を観るはめになってしまった。そこでまずは、ロッシーニの楽しい音楽がまだ耳に残っているうちに、『チェネレントラ』についてのあれこれを書き留めておくことにしよう。
今回の上演は、ジャン=ピエール・ポネルの演出に基づいている。同じ演出による秀抜なLDが1988年に出されていて(指揮はクラウディオ・アバド)、これは家族全員で繰り返し楽しんだものだ。ユーモアにあふれ、躍動する音楽と見事な調和を見せるその演出は、いま観ても少しも古びていない。懐旧の情に浸る間もなく、私はポネルの世界に引き込まれていった。
「チェネレントラ」とはイタリア語で「灰かぶり娘」、つまり英語の「シンデレラ」のことである。基本構造は私たちのよく知っている物語と同じで、いじめられて台所で灰かぶりになっている娘が、思いもかけない力によって出た舞踏会で王子に見初められ、めでたく結婚するという話である。この継子話は世界に広く分布するようで、起源は東洋にあるらしい。私たちにはむしろ『グリム童話』で親しいものになっているのだが。
ただこのオペラの物語は、『グリム童話』とはいくつかの点で異なっている。血の繋がりのない姉二人は共通するものの、重要な役割を演じる親は、継母ではなく、継父である。昔話に込められた娘と母親の葛藤という心理学的テーマは、父親を登場させることで、宮廷での出世をテーマのひとつとする世俗物語に変えられている。
そして、ダンディーニという、王子とは対極の位置にある従者が準主役として創造され、この二人の言動は、「権力」と「愛」という対立する概念を導き出すことになる。継父と二人の継姉は、権力を求めて、従者が扮装した軽薄な「王子」をひたすらに追い、アンジェリーナ(チェネレントラ)は、心優しい「従者」(じつは王子)に愛を捧げる。このオペラの正式のタイトルは、『チェネレントラ、または真心の勝利』なのである。
タイトルロールを歌ったヴェッセリーナ・カサロヴァは、このオペラのセリア的要素を体現して、高貴そのものだった。その深い第一声が静かにホールに響くや、たちまち私は魅了されてしまった。もちろんロッシーニが要求する超絶技巧も難なくこなし、最後を締めくくる大アリアに至っては、寛容の徳をしみじみと、しかも華麗に讃えて、聴くものを圧倒した。
アントニーノ・シラグーザは、ロッシーニを歌うために生まれてきたテノールではないだろうか。気掛かりだった音程の不安定さも消え、きらびやかで軽やかな歌声は、満場の聴衆をブラボーの渦に巻き込んだ。第2幕のアリア「彼女を探し出してみせる」は、鳴り止まぬ拍手に応えて、繰り返し歌った。
日本人歌手二人を含めて脇役も良かった。しかし肝心のサイラスの指揮については評価が分かれるだろう。ロッシーニらしくない音楽なのである。躍動感に満ちた、たとえばアバドの指揮する音楽に比べると、地味というほかない。しかし彼は、主役のカサロヴァを念頭においた音楽作りをしたのではないだろうか。ブッファとセリアが拮抗するこのオペラにおいて、明らかにセリア寄りの指揮であった。これも悪くはない。私は大いに楽しんだのだから。
2009年6月12日 新国立劇場
【作 曲】ジョアキーノ・ロッシーニ
【台 本】ジャコモ・フェレッティ
【指 揮】デイヴィッド・サイラス
【演出・美術・衣裳】ジャン=ピエール・ポネル
【再演演出】グリシャ・アサガロフ
【演技指導】グリシャ・アサガロフ/グレゴリー・A.フォートナー
【ドン・ラミーロ】アントニーノ・シラグーザ
【ダンディーニ】ロベルト・デ・カンディア
【ドン・マニフィコ】ブルーノ・デ・シモーネ
【アンジェリーナ】ヴェッセリーナ・カサロヴァ
【アリドーロ】ギュンター・グロイスベック
【クロリンダ】幸田 浩子
【ティーズベ】清水 華澄
【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
2009年6月15日
j-mosa



