壮麗で絢爛そして哀切極まる歴史劇
  ―ヴェルディの『ドン・カルロ』

 前にも書いたように、私はモーツァルトと並んで、ヴェルディのオペラがとりわけ好きである。なかでも中期を代表する作品『ドン・カルロ』は、聴くたびに畏敬の念を伴った感動を覚える。ここにはヴェルディの鋭い歴史感覚、人間性への深い洞察力、そして何よりも、崇高で高貴な精神を感じとることができる。

 スケールの大きい大伽藍を思わせる音楽と、心に染み入る哀しみの音楽が見事に調和して、3時間を超える上演時間の長さをまったく感じさせない。『ドン・カルロ』は、パリのオペラ座から作曲を委嘱され、1867年に初演された。初演はフランス語で、タイトルも『ドン・カルロス』。原作は1787年シラー作の戯曲『スペインの王子ドン・カルロス』である。16世紀後半のスペイン王室を舞台にしている。初演は成功とは言い難かったようだが、同じ年にロンドンで上演されたイタリア語による『ドン・カルロ』は喝采を得た。そして今ではイタリア語版のほうが多く上演されている。もっともイタリア語版にも何種類もの版があり、今回取り上げるメトロポリタン・オペラのプロダクションは、1974年のクリティカル・エディションに拠っている。

 主要登場人物のスペイン国王フィリッポ(フェリペ)2世、その息子ドン・カルロ、王妃エリザベッタ(イサベル・ド・ヴァロア)は実在の人物で、物語の大枠も歴史的事実を踏まえている。フィリッポ2世時代のスペインは、新大陸とアジアに広大な植民地を持ち、「陽の没することのない大帝国」といわれていた。政治的にはハプスブルク・スペインの黄金時代であったわけだが、その経済力は彼の治世の初めから破綻をきたしていた。領土を護るための絶え間のない戦争と国内産業の不振。さらに領土の一部であるフランドルにはカルヴィニズムが浸透し、カトリックの主柱スペインに牙を剥きつつあった。

フィリッポは1559年、フランスとカトー・カンブレジの和約を結び、イタリアの支配権を争って長年続いた戦争を終結させた。物語はここから始まる。スペインの使節とともに密かにフランスにやってきた王子ドン・カルロは、フォンテンブローの森で婚約者のフランス王女エリザベッタと初めて出会う。そして二人はたちまち恋に落ちるのだが、その喜びは束の間のものとなる。フランス王は娘を、二人目の妻を亡くしていたフィリッポと結婚させることにしたのだった。

 エリザベッタを忘れることができないカルロ。エリザベッタの心もカルロにあり、フィリッポはまたそのことを知っている。物語の核心部分をなすこの三角関係は、しかしどうやらシラーのフィクションであるらしい。精神を病んで言葉もまともに話せなかったといわれる実在のドン・カルロは、虐げられたフランドルを救わんという偉丈夫に変身させられたのである。

 ドン・カルロとエリザベッタの秘められた恋は、例えようもなく哀しい。ひたすら自分の恋情を訴えるかけるカルロに対して、恋心を深く胸に秘めながらも耐え忍ぶエリザベッタの姿は、痛々しくも胸を打つ。第1幕第3場、修道院前庭の場面、恋の苦しさで自失したカルロを前にして、自らも崩れ去る危うさを抱えながらも彼を厳しく諭すエリザベッタは、崇高の域に達している。このエリザベッタを歌って右に出るものはいないと思われるのは、ミレッラ・フレーニである。美しさはいうまでもなく、気品と繊細さ、さらにしなやかな強さを併せ持っている。このオペラには6人もの主要登場人物がいて、それぞれに力のある歌手を割り当てなければ成り立たない。なかでも、このエリザベッタ役はとりわけ重要である。この上演の成功は、何よりもフレーニの起用にあると思われる。

 いくつもあるこのオペラの聴きどころのひとつに、ドン・カルロとポーサ侯爵ロドリーゴ(この役のみフィクション)の友情がある。彼らはフランドルに同情を寄せている。第1幕第2場の2人の歌う二重唱は力強く印象的だが、ロドリーゴ役のルイ・キリコの影が薄いのがこのディスクの唯一の弱点。しかし同じ第1幕の第3場、フィリッポにフランドルの窮状を訴える場面は、歌唱はともかく、熱演である。対してフィリッポは、王の孤独を露わにしてロドリーゴに忠誠を誓わせるのだが、フィリッポを歌うニコライ・ギャウロフはキャリアの豊富さを感じさせて圧巻。ここは、王の側近という権力の座を前にして、ロドリーゴの心が揺らぐ場面である。権力は人間の持つ究極の欲望のひとつだが、このオペラは、権力をめぐる壮絶な戦いの物語でもあるのだ。

 絶え間のない戦争、国家財政の破綻、異端(カルヴィニズム)の勃興、それに加えて家族間の不和――フィリッポ2世の孤独は筆舌に尽くしがたい。フランドルの割譲を迫った息子カルロは、今や牢の中である。第3幕冒頭の彼のアリア「ひとり寂しく眠ろう」は、その孤独を歌って秀抜である。ここでもギャウロフが深い美声を駆使して素晴らしい。直後の宗教裁判長との論争も迫力満点である。王子カルロは処刑すべし、しかし最大の危険分子はロドリーゴであると声を荒げる宗教裁判長に、フィリッポは屈するほかはない。宗教と政治の激しい権力闘争を目の当たりにする思いだ。

 ロドリーゴの命をかけた犠牲とエボリ公女の機転でカルロは牢を抜け出る。そしてエリザベッタの待つサン・ジュスト修道院に向かう。大詰めの第3幕第3場、エリザベッタのアリア「世のむなしさを知る方よ」で始まるこのサン・ジュスト修道院の場面は、観るたびに涙が溢れ出る。アリアでは、カルロとのたった1日の美しい思い出とその後の苦悩の日々が切々と歌われ、残された願いはただひとつ墓所の安らぎのみと、締めくくられる。

 ここでのフレーニはエリザベッタそのものである。絶望の深さ、神への静かな、しかし激しい希求。私は、こんなにも美しく崇高なソプラノ歌手は、彼女以外にいまだ知らない。カルロと永遠の別れを歌う二重唱も、フレーニとドミンゴの類稀な歌によって、絶望が次元を超えた愛に昇華される。エリザベッタはもはや恋する人ではなく、母として息子カルロをフランドルに送ろうとする。しかし、二人の沈黙の間を縫って奏でられるオーケストラから聴きとれるのは、エリザベッタの哀しい女心である。ここでのエリザベッタの心中は、彼女の言葉からは容易に読みとることはできない。ただヴェルディの音楽のみが、彼女の底知れぬ哀しみを伝えるだけである。音楽の力に驚嘆する。 

 フィリッポと宗教裁判長はカルロをサン・ジュスト修道院に追い詰める。カルロはカール5世(フィリッポ2世の父)の墓に引き入れられて幕となるのだが、どの上演に接しても、この場面では戸惑うことになる。カルロは現実的に救われるのか、あるいは墓所の奥深く生を終えるのか。この演出はカルロに生を与え、一筋の希望を提示しているように思われる。

 ドン・カルロに横恋慕するエボリ公女役のグレイス・バンブリーの歌唱力にも脱帽する。他方ドン・カルロは、タイトル・ロールにしてはひ弱さがあり、いまひとつ物足りなさを感じさせる役柄なのだが、ドミンゴが演じるとその弱さは悲劇性を帯び、十分に主役のひとりとなっている。彼の柔らかく、それでいてドラマティックな歌は、やはり素晴らしいというほかない。とりわけフレーニと絡む場面は息をのむ出来栄えである。ジェイムズ・レヴァインは、最後のサン・ジュスト修道院の場面を聴いただけでも、第一級の指揮者だと納得させられる。

1983年3月26日 メトロポリタン歌劇場

指揮:ジェイムズ・レヴァイン
演出:ジョン・デクスター
出演:[ドン・カルロ]プラシド・ドミンゴ
[エリザベッタ]ミレッラ・フレーニ
[フィリッポ2世]ニコライ・ギャウロフ
[ロドリーゴ] ルイ・キリコ
[エボリ公女]グレイス・バンブリー
[宗教裁判長]フルッチョ・フルラネット
メトロポリタン歌劇場管弦楽団・合唱団

2008年9月1日  j-mosa