日常のなかの広島の悲劇今村昌平『黒い雨』  

 夏になると、ことに8月に入ると、かつての戦争のことを思い出させる情報が増えてくる。暦も6日の広島、9日の長崎、15日の終戦記念日と、戦争にまつわるメモリアルな日が続く。

 暑い夏の日の夜、私も戦争に思いを馳せて、何ヵ月も前にNHKのBSで放映された『黒い雨』の録画を観ることにした。長い間気に掛っていた映画なのだが、完成してからすでに20年近い歳月が流れていた。この怠慢を責めなければならないと感じたほど、今村昌平の『黒い雨』は力作であった。

 原作は井伏鱒二の同名の小説である。しかし物語そのものにはかなり変更が加えられていて、小説を読んだ後にこの映画を観た人は、少なからず戸惑うところがあるだろう。とはいえ、物語の大きな枠組みは原作から借用され、冷静沈着、しかし巧まざるユーモアを含んだ語り口は、原作そのものといえよう。

1945年8月6日の朝、広島の空は高く晴れわたっている。その空を、風にゆられて、何かがゆっくりと舞い降りてくる。街では、戦時下の日常ではあるが、いつもの人々の生活が始まっていた。矢須子(田中好子)はたまたま広島を離れていて、荷物を預けにいった知人宅のお茶席に同席していた。戦争を忘れるのどかなひとときである。矢須子の叔父閑間重松(北村和夫)は、会社に向かうべく、横川駅から電車に乗ろうとしていた。通勤客などで一杯の、これも変わらぬ日常の光景である。空から降りてくる原子爆弾も、上空600メートルで炸裂するまでは、のどかな風景のなかにあったのだ。日常が一瞬のうちに地獄に化す。この恐怖を生なましく伝えて、映画は始まる。

 5年後、25歳になる矢須子は、福山市小畠村の重松の実家で、重松・シゲ子(市原悦子)夫妻、重松の母キン(原ひさ子)とともに暮らしている。家には、重松の幼なじみ庄吉(小沢昭一)や好太郎(三木のり平)などが出入りし、平和な毎日である。重松の悩みは、被爆者である自身の健康よりも、矢須子の縁組だった。彼女の元へは絶えず縁談が持ち込まれるのだが、被爆したという噂のため、破談になっていたのだ。重松は矢須子が直接被爆していないことを証明しようと、彼女の日記を清書し始める。それを縁談の相手に見せようというのである。日記が再現する広島の阿鼻叫喚の世界と、5年後ののどかな小畠村の情景。映画はこの二つの世界を対比させながら進む(重松の日記も援用される)。

 小畠村は小高い山に囲まれた、懐かしい日本の農村である。豊かな田園と緑濃い森。町からの木炭バスが、おそらく1日に1度、細い山道を登ってやってくる。重松は、庄吉と好太郎の3人で、原爆病にいいといわれる鯉の養殖を始める。幼なじみということの他に、彼らの共通項は被爆者であるということである。庄吉と好太郎は重松とは異なり、間接的な被曝であったのだが。彼らは小畠村出身者の救済のため、被爆直後の広島を歩き回ったのである。しかし原爆病の発症は、直接間接を問わなかった。まず庄吉が、続いて好太郎が原爆病で死ぬ。穏やかな日常のすぐ隣合わせに悲劇は存在する。被爆者は、63年経った今でも、その恐怖のなかで生きている。その状態を、「だまし打ちの恐怖」と、存命の被爆者が先日ラジオで語っていた。

小畠村ではさらに矢須子が、そしてシゲ子が発症する。シゲ子は広島市内の自宅で被爆し、矢須子は広島に戻る途中、船上で黒い雨を浴びたのだった。小畠村の被爆者にふりかかる出来事は、8月6日の広島のそれに劣らない悲惨なものであった。

 日常のなかの悲劇を表現してこの映画は高い水準に達しているのだが、全編に漂うそこはかとないユーモアが救いとなっている。几帳面で合理的な重松と、どこか現実離れしたシゲ子とのズレが、何ということもなくおかしい。それに、三木のり平と小沢昭一という濃厚なキャラクターが、ユーモアに大きく寄与している。生きていることの悲惨とおかしさ――その両面が彼らの演技から滲み出ている。

 救いといえば、矢須子と、戦争で神経を冒された悠一(石田圭裕)との、ひそやかな愛であろう。地主階級の重松の姪である矢須子に比べれば、悠一は家柄も低く、精神障害者である。悠一の母親(山田昌)は、矢須子を息子の嫁にほしいと重松の家を訪れるのだが、この場面がなかなかにいい。母親はもう端から恐縮して、用件を言い出せない。さんざん迷ったうえでの彼女の話を聞いた重松は、唖然とする。身分も違うし、おまけに悠一には障害がある。容易に縁談がまとまらない矢須子の足元を見透かしているのではないか、と怒るのである。そこに矢須子が現れて悠一との関係を打ち明ける。彼とは心を開いて話し合うことができるのだと。何時間話し合っても飽きることがなく、沈黙さえも共有できる間柄になっていたのである。

 矢須子はこの場面の直後、原爆症が悪化して車で病院に運ばれる。そしてそこには悠一がつき添う。エンジン音を聞くと神経症を発症していた悠一が車に同乗したのである。車が小畠村を去った後、重松は遠くの山の峰々に目をやってこう思う。そこに虹がかかったなら矢須子の命は助かると。その峰を遠望して映画は終わるのだが、虹はまだ見ることはできない。しかし、間違いなく虹はかかったはずである。原爆症も精神障害も乗り超えた美しい虹が。

 田中好子は不思議な存在感があり、静かで自然な演技で好感が持てた。またこの映画は、北村和夫の代表作に数えられるのではないだろうか。新劇俳優独特の臭いも取れて、実直で愛情深い、初老でありながらまだ生命力の残滓を感じさせる男を好演した。河原で荼毘に付される遺体の前で、僧に代わって「白骨の御文章」を読むくだりは、原爆の残酷さと命の儚さを伝えて、とりわけ印象深い。この映画の成功は、何よりも北村和夫の存在にあるとの思いを強くした。

1989年日本映画
監督:今村昌平
脚本:今村昌平・石堂淑朗
撮影:川又昂
音楽:武満徹
出演:北村和夫、市原悦子、田中好子、三木のり平、小沢昭一

2008年8月6日 
j-mosa