モーツァルト・オペラの極北――ザルツブルクの『フィガロの結婚』

2006年はモーツァルトの生誕250年ということで、世界中のコンサート会場に彼の曲が溢れかえった。前年12月31曰のべルリン・フィルのジルベスター・コンサートも、『フィガロの結婚』序曲で幕を開け、『ピアノ協奏曲第9番』、『交響曲第38番』、そして『フィガロ』第4幕のフィナーレで終わるという、オール、モーツァルト・プログラムだった。
モーツァルトの生誕地ザルツブルクで毎年夏に行われる「ザルツブルク音楽祭」も、もちろんモーツァルト一色で、オペラ作品全22作すべてが上演された。指揮者も歌手も話題の人たちを登場させて、それぞれの作品が話題をよんだようだが、なかでもオープニングを飾った『フィガロの結婚』は、チケットが容易に手に入らず、40万円ものプレミアムが付いたとか。アーノンクールの指揮はもちろんだが、何より、スザンナ役のロシアの歌姫、アンナ・ネトレプコがお目当てということだったのだろう。
この『フィガロ』が、10月8日の午前1時前から、NHKのBSで放映された。いつものように予約録画でと思いながら、さわりの部分を観始めたら、もう止めることができず、結局、早朝4時まで観るハメになってしまった。
この舞台は、オペラ『フィガロの結婚』の極北に位置するものではないだろうか。演出のクラウス・グートは、オペラの革新者モーツァルトの意図を、極限まで押し進めたのだ。オペラは、モーツァルトにおいて、真の意味でドラマとなるが、グートが作り上げた舞台は、男女の激しい愛憎が交錯する、それこそ現代心理劇となった。その結果、主役はもはやフィガロではなく、ましてやスザンナでもなく、彼らの雇用主、伯爵とその夫人になってしまった。この舞台の最大のウリが、スザンナ役のネトレプコであったはずが、皮肉なことに、影がきわめて薄くなったのである。その意味では、この舞台は失敗ということになるが、これはおそらく、グートの考えを超えたことだったに違いない。
本来の主役フィガロも、また音楽上の主役スザンナ(美しいアリアを与えられており、重唱に参加する割合がもっとも多い)も、心理的にはそれほどの深みを持っていない。陽気で明るく、機転もきくが、男女間の微妙な心の綾からは遠いところにいる。いっぽう、夫の心変わりに傷ついている伯爵夫人の絶望は深い。夫人を愛しながらも、他の女性を追い求めざるを得ない伯爵の心も、複雑である。心理劇としたからには、必然的に、伯爵とその夫人が主役にならざるを得ないのである。アーノンクールも、演出意図を正確に把握して、モーツァルトの音楽から、かつて耳にしたこともない激しい情念を引き出した。脱帽と言うほかない。この意味では、稀にみる舞台となった。
モーツァルトの音楽の凄さは、第2幕に集中的に表れる。伯爵夫人の部屋の衣裳部屋にケルビーノが隠れ、彼女はそれをスザンナだと言い逃れをするのだが、伯爵は信じない。夫人の愛人が隠れているものだと確信して、夫人を非難する。嫉妬に荒れ狂う伯爵と、それに必死で対抗する伯爵夫人。この二人の二重唱(ときにスザンナも絡む三重唱となる)は、争いと嘆きの場面だけにとても激しい。しかし、その美しさは何としたものだろう。人間の醜さと弱さが、激烈でありながら、同時にこんなにも美しく表現されるとは! モーツァルト以外の、誰がこのような音楽を書くことができただろう。ここでは、「ドラマティスト」アーノンクールの面目が、躍如としている(ドロテア・レシュマンは伯爵夫人の哀しみを激しく歌って見事、ボー・スコウフスも伯爵の欲望と嫉妬をよく表現した)。
モーツァルトの音楽は、エロスを抜きには語れない。『フィガロ』ももちろん、エロスに満ち溢れたオペラだが、とりわけケルビーノがふんだんにそれを体現している。彼には有名な2つのアリアがあり、特に第2幕の「恋とは何かを知るご婦人方」には、伯爵夫人やスザンナならずとも、男の私でさえ、恍惚の境地にひき込まれてしまう。アーノンクールは、もう、音楽の流れなどにこだわらない。少年ケルビーノの、女性に対する憧れや欲望、満たされない想いなどが、尽きぬ泉のように溢れ出、渦巻き、ときに行き場を失う。ケルビーノのクリスティーネ・シェーファーが素晴らしい。
私の『フィガロ』の原点は、ベームが指揮をし、プライ、フレーニ、テ・カナワ、フィッシャー=ディースカウが歌った、1976年録画のものである。演出はジャン=ピエール・ポネル。優美で、牧歌的で、誠に楽しい。私はこのディスクが大好きである。主役はまさしくフィガロとスザンナで、彼らが歌いあげるアリアや重唱は、まさに天上の音楽。現代は、もう、あのような舞台を作ることはできないのだろうと思うと、寂しさはひとしおである。
2006年7月 ザルツブルク・モーツァルトハウス
指揮:ニコラウス・アーノンクール
演出:クラウス・グート
装置・衣装:クリスティアン・シュミット
出演:[アルマヴィーヴァ伯爵]ボー・スコウフス
[伯爵夫人]ドロテア・レシュマン
[スザンナ]アンナ・ネトレプコ
[フィガロ]イルデブランド・ダルカンジェロ
[ケルビーノ]クリスティーネ・シェーファー
[マルチェリーナ]マリー・マクローリン
[バルトロ]フランツ=ヨーゼフ・ゼーリッヒ
[バジリオ]パトリック・ヘンケンス
[ドン・クルチオ]オリヴァー・リンケルハーン
[アントニオ]フローリアン・ベッシュ
[バルバリーナ]エヴァ・リーバウ
[ケルビム(キューピッド)]ウリ・キルシュ
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、
ウィーン国立歌劇場合唱団
2007年10月29日
j-mosa



