移ろいゆく「時」、そして諦念――新国立劇場『ばらの騎士』
カルロス・クライバーが日本で指揮した『ばらの騎士』は、「伝説の舞台」となり、今でも語り草となっている。1994年のウィーン国立歌劇場の来日公演である。これを私は観損なった。チケットが取れなかったわけではない。だいたい私は、高額な海外引越し公演にはほとんど足を運ばないし、その分できるだけ日本人の手になる舞台を観ることにしている。ではなぜ「観損なった」のか。
理由はもう失念したが、クライバーの『ばらの騎士』のチケットが1枚、金曜日当日の昼前、私の元に転がり込んだのである。あろうことかその日の午後は、よんどころない事情で半日休暇をとることになっていて、夜の公演にも間に合いそうにない。涙をのんで知人にそのチケットを譲ったのだった。つい先ごろ、その公演を観たという人と話をしていて、主役のひとりである元帥夫人を歌ったのがフェリシティ・ロットだったということを知り、今さらながら無念の思いを噛み締めたのだった。
6月15日の『ばらの騎士』も、友人からチケットが回ってきた。13年前の秋の出来事を思い出しながら、新国立劇場に赴いた。そして、リヒャルト・シュトラウスの豊麗な音楽を堪能した。
このオペラのテーマは明瞭で、それは「時」である。一夜を共にした若い愛人オクタヴィアンから、「あなたは素晴らしい」と甘い言葉を囁かれる元帥夫人だが、鏡のなかの自分の姿に、移ろいゆく「時」を意識する。すくってもすくっても、指の間からこぼれ落ちていく時間。オクタヴィアンとの別れも、今日か、また、明日か。窓に差し込む日の光が翳り、いつしか外は雨になる。ジョナサン・ミラーの演出が冴え、カミッラ・ニールント(元帥夫人)の歌からは深い諦念が感じ取れる。
第2幕ではばらの騎士が登場する。結婚が決まると、花婿から花嫁へ銀のばらが贈られるが、その使者がばらの騎士である。18世紀のウィーンにいかにも実在したような風習だが、これは台本を書いたホフマンスタールの創作。それはともかく、オクタヴィアンがそのばらの騎士となり、オックス男爵の許婚ゾフィーのもとへ銀のばらを届ける。オクタヴィアンはいわゆるズボン役で、女声の男役である。明らかに『フィガロの結婚』のケルビーノの末裔であり、これを美しいメゾ・ソプラノが演じると、何ともいえないエロスを醸しだすことになる。当夜はエレーナ・ツィトコーワというロシア出身の若い歌手が歌ったが、エロスにはいささか欠けるものの好演した。
第1幕から第3幕まで通して登場するのはオクタヴィアンとオックス男爵である。銀のばらを届けられたゾフィーだが、オックスのあまりの傍若無人ぶりに愛想をつかす。そしてオクタヴィアンがオックスを懲らしめるのが第3幕である。オックスは、好色で滑稽、しかし品性を欠いてはならないという難役。演じたのはバスのペーター・ローゼで、音楽性が高く、演技もうまい。まさにはまり役であろう。
元帥夫人はオクタヴィアンをゾフィーに譲り、若い2人の愛の二重唱で幕が閉じられる。2人にとって「時」は永遠であるかのようだ。しかし、ここでのリヒャルト・シュトラウスの音楽は、甘美さだけでは説明できない。言いようのない不安が顔を覗かせる。舞台となったマリア・テレジアの時代には革命が迫り、初演された1911年の数年あとには第1次世界大戦が勃発する。このような時代背景を踏まえたうえでなお、「時」の持つ普遍的な「哀しさ」を感じとらざるを得ないのである。
指揮はペーター・シュナイダー。繊細で香り高く、爛熟の美しさと頽廃を良く表現していた。オペラを支えるのはやはり指揮者だなと、改めて思った。
2007年6月15日●新国立劇場
カミッラ・ニールント
エレナ・ツィトコーワ
ペーター・ローゼ
オフェリア・サラ
ゲオルグ・ティッヒ
ペーター・シュナイダー[指揮]
東京フィルハーモニー交響楽団
ジョナサン・ミラー[演出]
2007年6月30日 j-mosa



