哲学を身体化する――濱口竜介『急に具合が悪くなる』

「急に具合が悪くなる」とは、ある人がのっぴきならぬ状況にあり、そこでの発言や行為がかけがえのないものであることを表現している。それを理解した上で、この映画のタイトルは、例えば「不可能性へ向かって」の方がいいのになぁ、と鑑賞中思っていた。ステージ4のがん患者である主人公のひとり真理は、殆どその重症さを見せないこともあるし。

私たちが生きていく上で、不可能と思われることは多い。人と人とが理解し合うことの不可能性はその極北にある。ましてこの映画の主な舞台の老人ホームにおいては、その不可能性はさらに深まる。映画の劇中劇ではイタリアの精神病院を背景にしていて、患者と健常者の関わりが問われている。絶望的にも思える不可能性をどのように自らの問いにするか。

演出家の真理と老人ホームのスタッフ、マリーの対話を中心に物語は進む。真理はフランスの大学で哲学を学び、マリーは日本の大学で文化人類学を学んだ。会話は日本語とフランス語で、どちらから見ても、相手は異文化を背負っている。相互理解が困難な状況で、ふたりはソウルメイトとも呼べるような関係性を結ぶ。それがどのように可能であったのか。

哲学を学んだ真理は、どうして演出家になったのだろうか。その答えの一端は、彼女が演出をした劇中劇のなかに窺える。老人ホームの運営に行き詰まったマリーが鑑賞する劇中劇である。イタリアの医師フランコ・バザーリアに扮した長塚京三が、精神病院を解体する様を演じている。

長塚は床に顔を密接して、「近づけて顔を見ると、みな精神病ではないか」と、人間の狂気を普遍化する。バザーリアは精神病患者を地域社会へと解放したのだが、長塚の演技は、マリーだけではなく、劇場の観客、更には映画を観る者の心をも震わせる。哲学の言葉が見事に身体化したのだ。芸術の力である。ちなみにイタリアでは、1978年に「バザーリア法」が制定され、精神病院が段階的に閉鎖された。

それでは、文化人類学を学んだマリーは、なにゆえ老人ホームで働いているのか。それは、認知症となり、老人ホームで亡くなった母親に関わる。彼女の心に寄り添うことができたのかと、マリーは深い悔恨を抱えている。老人ホームで、母親はどのような最期を迎えたのか、マリーは殆ど関心を持たなかった。その悔いゆえ、老人ホームが、彼女の学問のフィールドとなった。

老人ホームの運営者でもあるマリーは、ケアの中心を「ユマニチュード」に置こうとしている。これは1970年代にフランスで体系化された思想で、相手をひとりの人間として遇するという方法論である。つまり、自らは何も出来ず、コミュニケーションも難しい人であっても、魂と自尊心を有していると認識し、その心に沿うケアを行う。

一人ひとりに寄り添ってケアをするには、人手と時間が必要である。「効率」を至上価値とする資本主義とはまことに相性が悪い。それゆえにマリーは孤軍奮闘することになる。痴呆症だけではなく、精神病患者や障がい者のケア、もっといえば子どもたちの教育に至るまで、こと魂に関わる仕事には「効率」は害にしかならない。

マリーの施設に一晩泊まった真理は、夜中、会話中に緊急のベルを聞く。ふたりは急ぎ痴呆症の人の個室に駆けつけ、ケアをする。正面から相手の目を見つめ、優しく声をかける。そして肩から腕にかけてゆっくりと撫で下ろす。あまりに自然な動きで、とても演技とは思われない。ユマニチュードに沿ったケアだろうが、感動的な場面であった。

真理は急に具合が悪くなる。布団に寝そべる真理をマリーは世話をする。そのマリーの足を、逆に真理が揉む。ケアをする者とされる者が一体となる。このやり方はマリーの老人ホームに適用されて、ある晴れた日、大勢の人たちが互いに足を揉み合うのだった。痴呆症の老人たち、ケアをする人たち、障がいを持つ青年も加わり、じゃれ合うように一体化する。優しく見守る真理。いい光景である。ひととき、不可能が可能になったようだ。

2026年8月6日 於いてキネマ旬報シアター

2926年 日本・フランス・ベルギー・ドイツ映画
監督:濱口竜介
脚本:濱口竜介、ルディムナ玲亜
原作:宮野真生子・磯野真穂『急に具合が悪くなる』
出演:ヴィルジニー・エフィラ、岡本多緒、長塚京三、黒崎煌代
音楽:サミュエル・アンドレイエフ
撮影:アラン・ギシャウア
編集:山崎梓

2026年8月9日 j.mosa