知と文明のフォーラムⅡとは、行き詰った近代文明を打破し、新しい「知」を構築する目的で、北沢方邦、青木やよひを中心に発足した団体です。

青木やよひの部屋

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青木やよひの人と経歴

1927年6月13日、現在の静岡市に生まれた。父は青木馨、母はトみである。父は当時の内務省官吏であり、戦後は最後に労働省の栃木県古河労働基準監督局局長を勤め、退職した。

父方の曽祖父は長州藩士中野喜八であり、明治維新直前の京都「蛤御門の変」の責任者の一人として三条河原で幕府方に処刑され、のちに明治政府により名誉回復された。祖父菊次郎はその次男で、彰義隊との上野戦争で負傷、その戦功により総隊長大村益次郎より魁(すすむ)の名をあたえられたが、同僚であった母方青木家の長男が同じ戦争で戦死したため青木家の養子となり、軍役を退き、造幣局の官吏となった。

母方広瀬家は甲州塩山奥地の農家であったが、明治の笛吹川大洪水で農地を失い。祖父は各地を回って甲州の特産品を売る商人となった。

父母の仲は険悪であり、戦後父が労働基準監督局の官吏として各地を転々としたとき別居生活となり、父は別の女性と同居生活をはじめ、事実上の離婚となった。

体格も気質も父方の血を受け継いだやよひは、性格的に典型的な「武士の娘」であり、芯が強く、絶対に弱音を吐かず、苦痛をも面にださず、耐え忍ぶひとであった。また父母の夫婦生活の修羅場を目の当たりにしたため、生涯結婚などは絶対にしないと決意していたという。

母トみは、独身時代製糸女工や電話交換手をへて個人医院の薬剤師の手伝いをしていたが、その影響でやよひは薬剤師をめざし、東京薬科専門学校(現東京薬科大学)に入学し、戦時下の生活をそこで送ることとなった。

戦後彼女は同校を卒業して薬剤師の資格をえたが、在学中演劇部に所属していたため演劇活動に目覚め、一時、芥川比呂志、荒木道子、加藤治子らの劇団「麦の会」に入団、女優として舞台に立ち、ソーントン・ワイルダーの『わが町』などで脇役を演じた。そのとき荒木道子が「あなたって目立つひとねえ!」と感嘆したという。やよひ自身は脇役に徹していないと非難されたと理解したが、むしろそれは主役しか演じられないキャラクターなのだという讃嘆のことばであったのではないか。
事実、薬専の友人たちがこっそり提出した東宝の「ニューフェイス」(スター女優育成のための)募集の願書が書類選考に通り、やよひ自身もいたずら半分で受けた面接選考で最後の数人として残り、さまざまなテストをされたが、選考委員長の監督山本嘉次郎が彼女の耳元で「惜しいねえあんた、横顔のカメラ写りがよかったら大スターになれたのに!」とささやいたという。

母が生活のため、浦和で知り合いの医師の経営する医院の薬局を住み込みで手伝い、またやよひも一時別の薬局で働いていたが、そこで知り合い、フランス語を習っていた東京大学法学部助教授(当時)の野田良之の紹介でみすず書房編集部に入社することとなり、以後20数年をそこで過ごすこととなった。
入社後青木は、丸山真男、辻清明、野田良之、日高六郎、猪木正道など当時の若手研究者を募って編集長小尾俊人が設立した「ひいらぎ会」の担当者となったが、メンバーの人気を集め、その鋭い直観力で「ひいらぎ会のカッサンドラ」の綽名をえるにいたった。
また入社以前から著書を読み、傾倒していた片山敏彦の著作や監修する「ロマン・ロラン全集」も担当し、数度にわたる全集の組み直しをへて、最終的に完結させた。

1954年、みすず書房で知り合った北沢方邦と、二人の師であった片山敏彦の媒酌で結婚、一時母の開いた巣鴨の薬局で同居したが、その後練馬区石神井に新居を構えた。普通の結婚はしないという意志通り、それは、それぞれの仕事を生活の中心としたパートナー関係であった。

編集者としては、他社の編集者たちから「みすず書房の凄腕編集者」としておそれられたという。社会科学から美術書にいたる幅広い分野を手掛け、それは同時に彼女自身の勉強となり、のちに女性問題や社会問題、あるいは諸芸術などの評論や執筆のために大きく役立つこととなった。

1966年みすず書房が企画したロマン・ロラン生誕百年祭を、青木は北沢と二人で立案から実行まで手掛け、講演会、演劇『狼』の上演、さらにメインであったベルリオーズの劇的交響曲『ロメオとジュリエット』全曲日本初演(若杉弘指揮NHK交響楽団、ソリスト:戸田敏子、中村健、高橋修一、合唱:東京混声合唱団、日本合唱協会、二期会合唱団)を、フランス大使館、文部省、外務省、NHKの後援をとりつけ、フランス代理大使の挨拶を含め、東京文化会館大ホールで開催するにいたった。

1971年アメリカ国務省に招待された北沢方邦に同行し、合衆国を2カ月にわたって視察し、当時ヒッピーなど「文化革命」の熱気に溢れかえり、フェミニズムの烽火が上がっていたアメリカの状況に大きな知的・感性的刺激を受け、帰国後ただちにメディアを通じてフェミニズムや近代文明批判の活動を開始した。
とりわけアリゾナ州のホピやナバホを訪れたことは、異文化や「未開」への大いなる開眼となった。1975、84年の長期滞在、94年の再訪などで彼らの文化への理解を深め、それは『ホピ・精霊たちの大地』(1993年)などの著作に結実した。

またフェミニズムでは、1975年にメキシコ・シティで行われた第1回国連世界婦人年への参加をはじめ、多くの国際会議に参加し、1994年ドイツ・ビーレフェルトで開催された国際社会学会の女性問題分科会シンポジウムに出席、エコロジカル・フェミニズムの論陣を張った。
持ち前の熾烈な好奇心を発揮して、そのほかキューバ、インド、トルコなどを訪問し、異文化や異文明への見聞をさらに広めている。また1980年代女性問題(ウィメンズ・スタディー)研究者として、津田塾大学、立教大学の非常勤講師、東京大学教養学部学生自主ゼミナールの講師(60歳を超えていたため正規の非常勤講師とはならなかった)を勤め、いずれも学生たちにはひじょうに好評であったが、1年契約または理由不明で解約となった(学生に評判がよいことは、大学ではふつう嫉妬の対象である)。

だが1985年の歴史的な青木・上野論争で、マス・メディアやその女性記者のほとんど、また多くの論壇時評などが上野千鶴子氏の近代フェミニズムを支持し、青木のエコロジカル・フェミニズムに批判的(性差の認識とジェンダー差別との混同にもとづく批判)であったため、青木はメディアや自治体の文化活動から急速に閉めだされるにいたった。

だがそのおかげで青木は、80年代後半からベートーヴェン研究に専念することが可能となり、ドイツ、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、オーストリアなどをたびたび訪れ、資料収集や実地検証に当たることができた。またそれによって書かれた何冊かの「不滅の恋人」問題の本が評判となり、90年代後半は執筆や講演、ベートーヴェンの足跡をたどる海外旅行の講師などで多忙を極め、体調を崩すこととなった。

すでに70年代の終わりに、側溝に撒かれた殺虫剤原液が井戸に浸透するという事故(水道はあったが、石神井の名の由来である地域自慢の井戸水を炊飯に使っていた)に由来する農薬中毒となり、当時東京の病院は農薬中毒についてはほとんど無知であった(どこでも「更年期障害」ですよとあしらわれ、青木は怒っていた)ため、鍼灸や漢方など東洋医学によって数年がかりで回復するにいたった。おそらくそれが遠因であり、また多忙によるストレスなどが原因となった大腸癌が2008年発見された。除去手術は成功したが転移がはじまっており、肝臓、肺などが冒された。
2009年11月25日、青木やよひは伊東市民病院で死去した。翌年、遺骨は灰にし、伊東港沖合で、北沢および20数名の知人・友人たちの手で散骨式を行った。

文:北沢方邦

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