オペラに匹敵する情念のドラマ――石川さゆり「天城越え」

私にはどうやら、日本人としての常識に欠けるところがあるようだ。先日の友人とのメールのやりとりで、つくづく思い知らされた。

たまたまテレビで聴いた「天城越え」という歌にえらく感動して、友人にメールをした。君はこの歌を知っているか、と。知らないほうが不思議だよ、という返事。そこには、この歌を知らないなんて信じられない、君はいったい日本人なのか、という、やや侮蔑に近いニュアンスがこめられていた。

歌謡曲というのは私の関心外の領域だし、この分野のことを知らないといって、侮蔑されることはない。私はもちろん反論したが、「天城越え」から受けた衝撃の大きさもあり、ほとんどの日本人なら知っているらしいこの歌を知らなかった自分について、少々反省したのだった。

この歌をうたった石川さゆりが紅白歌合戦でトリをとったのは1986年らしく、その頃は我が家にテレビはなかった。「天城越え」を知らなくても不思議はない(テレビがあったとしても紅白歌合戦など観ることはないのだが)。しかし事情はどうあれ、この名曲を今まで知らなかったことは、私の人生をやや貧しくしたことは否めない。

私だけではなく、人間の関心を持つ領域は限られる。そして広大な関心外領域には、彼にとって未知の、おそらく豊かな情報が溢れているのだ。人生を実り多いものにするには、関心領域は広いに越したことはなかろう。好奇心が大切だといわれるゆえんである。

とはいえ、人生も黄昏に近づいているいま、身辺をできるだけシンプルにしておきたい、という思いもある。雑音に耳をかすことなく、趣味も、人との交際も限定する。物欲も押さえて、所有する物も整理していきたい。好奇心も制約するにしくはない。

好奇心をめぐってさえ、2つの考えの間を揺れ動く凡人でしかない私だが、「天城越え」に関しては、自らの貪欲さに感謝しよう。4~5分間にうたわれるドラマの濃密さは、2時間のオペラに決してひけをとるものではない。この考え方には我ながら驚いた。演歌の発見である。

「天城越え」は、女の情念の深さ、やり切れなさを、湿潤な伊豆の自然のなかに歌い込んで、圧倒的なリアリティを持つ。殺してしまいたいほど惚れる、という情はそれほど珍しいものではないが、それを顕に、しかも肉体的に表現した例はあまりないのではないか。

曲は静かに始まり、殺したいほどの嫉妬が何気なく歌われる。天城の山に分け入るほどに情は高まり、やがて山が燃え上がる激情に達する。そして、あとさきもない女の情念は、その胸奥に鎮められる。紅葉にめくるめく天城峠を女は越える。先に見えるのは不幸だけ。でも、女は男の後を追う。石川さゆりの絶唱からは、そんな暗い宿命を背負った女の足取りが、絵のように浮かび上がる。吉岡治の詩も見事だが、弦哲也の音楽は、類い稀なその情念の世界を、さらに濃密な色に染め上げた。

2013年7月7日 j-mosa

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