祈りを心で体感する――『大いなる沈黙へ――グランド・シャルトルーズ修道院』

修道院とはいかなる所か、そんな興味を抱いて映画を観に行った。ところが、観はじめて程なく、そのような俗な興味は難なく霧消してしまった。この映画は、具体的な情報を与えてくれる映画ではまったくないのだった。

記録映画といいながら、解説は入らない。情感を盛り上げる音楽が流れることもない。具体的なストーリーがある訳でもない。修道院生活の断面が淡々と映し出されるにすぎない。しかしながら、3時間に近い上映時間は、あっという間に過ぎてしまった。

具体的な情報がまったくないにも関わらず、この映画が伝えようとしていることは理解できる。グランド・シャルトルーズ修道院はいかなる所か、修道士とはどのような存在か、そもそも信仰とは何か。頭ではなく、心で感じとれるようにつくられている。

音楽が流れることがない、と書いたが、それは背景の音楽ということで、修道院のなかでは当然ミサがとり行われる。そこでは、修道士たちによって、グレゴリオ聖歌が歌われる。中世から少しも変わることなく、修道院で歌い継がれてきた聖歌である。映し出される楽譜は見慣れた五線譜ではなく四線譜。音譜も四角い。ネウマ譜である。細い系を紡ぐようなその清澄な響きは、祈りの音楽の他ではありえない。

音は聖歌以外でも、重要な役割を果たしている。野菜を刻む音、耕される土の響き、木々のそよぎ、小鳥の鳴き声……。信仰は生活とともにあり、自然のなかにある。

そして祈り。沈黙のなかで、修道士はひたすら祈る。自らの「独房」(粗末で狭い独居部屋だが「独房」という表現がふさわしい)で、またミサの場で。「主よ、あなたは私を誘惑し、 私は身を委ねました」。字幕は極めて抑制的で、聖書からの数節が映し出されるだけである。

グランド・シャルトルーズ修道院は、フランス・アルプスの中腹に建つ。人里からは隔絶され、20数名の修道士たち(若者から老人まで)は沈黙を守らなければならない。食事も「独房」でとる。絶対的な孤独のなかで、祈りと読書の日々を送る。「静けさ――そのなかで、主が我らの内に語る声を聞け」

映画の所々で、修道士一人ひとりがアップで映し出される。何と穏やかな表情であることか。そしてたった一ヵ所、老修道士が語るシーンがある。「死は人間が持ちうる最高の喜びである。なぜなら、死ぬことによって、我々は神に近づくという最高の状態に入ることができるからだ」

最後に、プログラムに掲載されたフィリップ・グレーニング監督の言葉を引用しておこう。

「結局、私は6ヵ月近くをグランド・シャルトルーズ修道院で過ごした。修道院の一員として、決められた日々の務めをこなし、他の修道士と同じように独房で生活した。この、隔絶とコミュニティ-の絶妙なバランスのなかで、そのー員となったのだ。そこで(一人で)映像を撮り、音を録音し、編集した。それはまさに、静寂を探究する旅だった」

2005年フランス・スイス・ドイツ映画

監督・脚本・撮影・編集:フィリップ・グレーニング
2014年9月5日 於いて新宿シネマ・カリテ

2014年9月10日 J.mosa