それでも人は生きていく——『恋人たち』の絶望と一条の光

「人間は生まれながらの敗者である」。私の愛する藤沢周平がどこかのエッセイで書いていた言葉である。滋味深い彼の時代小説の底を流れるこの認識は、小津安二郎の映画にも密やかに流れている。ともに人間の、一見穏やかな日常をたんたんと描きながら、それらの作品がときに類いのない深さを見せるのは、彼らのこの想いのゆえではないかと思う。

『恋人たち』をつくった橋口亮輔監督の胸中に流れている想いも、同じような諦念なのではないかと想像される。小津に比べるとはるかに表現の振幅は大きいのであるが、この映画から受けた私の感動は、小津作品からのものと同質の、深い森のなかに独り佇むような静寂なものだった。

この作品は橋口監督のオリジナル・ドラマである。にもかかわらずドラマとは思えない。まるでドキュメンタリーである。3人の恋人たちに橋口がインタビューをし、その記録を残したのではないか、とさえ思えてくる。それほどにリアルなのだ。作品はもちろんカラーである。しかし私の心にはモノクロームの映像として残っている。暗い川をゆく橋梁点検の船、夫と義母と囲む息苦しい食卓、クライアントと対面する冷ややかな弁護士事務所……。

人には生涯に何度か大切な出会いがある。首都高の橋梁点検を仕事としているアツシにとって、妻との出会いは何ものにも代えがたい大切なものであった。彼は言う。「妻は、内気でなんの取り柄もない自分を初めて好きになってくれた女性であり、暗いだけの自分の人生に明かりを灯してくれた女性だった」。そんな女性と生活を共にして、ありえなかった幸せをかみしめていたとき、突然不幸が襲う。妻が通り魔に殺害されるのだ。絶望と憎しみの淵から這い出せないアツシが第一の主人公である。殺意さえ胸に秘めた絶対的な不幸を、アツシはどう生きるのか。

第2の主人公瞳子は、心の通わない夫と義母とともに、狭い平屋に住んでいる。義母は使用済みのラップを壁に貼り付け再利用するほどの吝嗇家。妻よりも義母を重んじる夫とは会話は乏しく、セックスもなおざりである。倦怠感に満ちた毎日のなかに、いささか覇気のある男が登場し、彼女は惹かれていくことになる。

四ノ宮は自分本位なエリート弁護士で、ゲイである。若い恋人に去られて、学生時代から思いを募らせていた友人にはキチンと心情を告白できない。彼に対して感情移入することは難しいが、このような人物を第3の主人公としたところにも、橋口監督の視野の広さを感じる。

自分からは遠いはずの3人の恋人たちが、自分の近しい隣人と思えてくるところに、この映画のリアリティがある。隣人どころか、彼らは自分ではないかとも感じる。人生は危険な綱渡りであり、そのか細いロープを自分もよろよろと伝っているのだ。つくづくとそう思い、それゆえ、彼らに強い親近感を覚える。

しかし人は、絶望の底では生きてはいけない。ではいかにしてそこから這い上がり、生き延びていくことができるのか。この映画の主人公たちは、主体的に壁を破ることはできない。自らを客観視できるような知性は与えられてはいない。私たちと同じような普通の人間にすぎないのだ。

不幸は他者と関わるところから生まれる。ところが人は、他者と関わりなく生きていくことは不可能である。人はこのパラドクスを生きるしかなく、ここにこそ救いがあるとこの映画はいっているようだ。手首を切ろうとして死にきれないアツシのもとに、同僚の黒田がコンビニ弁当を携えて訪ねてくる。アツシは苦しみを吐露し、黒田は優しく耳を傾ける。そしてカツを食べ、ビールを一緒に飲んで帰っていく。同僚を演じる黒田大輔がとてもいい。一条の光である。

橋口監督の映画をひとつとして観たことがなかったというのはまことに恥ずかしい。絶望のなかにユーモアがそっと紛れ込む不思議な世界。未知のものに触れる喜びを味わったものだが、知ることは「敗者の人生」のなかでの、数少ない喜びであろう。

2016年1月29日 テアトル新宿

原作・脚本・監督:橋口亮輔
出演:篠原篤、成島瞳子、池田良、光石研、安藤玉恵、木野花、黒田大輔、山中聡、内田慈、山中崇、リリー・フランキー

2016年2月3日 j-mosa