象徴性に溢れた名舞台――二期会の『トリスタンとイゾルデ』

『トリスタンとイゾルデ』第2幕の劇的な幕切れ。私は拍手をすることができなかった。できなかったというより、拍手を忘れた。あるいは忘れるくらい呆然自失の状態に連れていかれた。緊張感に満ちた音響が、畳みこむように聴く者の全身を包みこむ。トリスタンを裏切った、友人メロートとの決闘の場面である。トリスタンは瀕死の重傷を負うのだが、それが相手によるものなのか、自らの手によるものかは問わず、いずれの演出でも十分に衝撃的である。しかしこの舞台は、それだけでは終わらない。

舞台装置といえば、左右の巨大なパネルのみ。そこには、細かな草様の模様が、暖かい色彩で無数に描かれている。それは、春の命の息吹のように、太陽に向かって点描されている。床にも同じような、一面の点描画。そして中央に一層の小舟。この小舟を、トリスタンとイゾルデは、静かに漕ぐ。前にイゾルデ、後ろにトリスタン。立ったまま、静かに漕ぐ。歌手の動きは、ワーグナー随一の官能の音楽と溶けあう。有名な愛の二重唱の場面である。永遠の愛もあり得るのか! この曲がこれほど身に染みたことはない。

第1幕も、また第3幕も、舞台装置は同じである。ただパネルに描かれた絵は異なる。第1幕は、海を表す青い波様の模様。第3幕は、墨を天に向けて跳ね上げたような、荒々しい、漆黒の図形。第2幕の模様も含めて、それぞれは各幕の主題を象徴する。そして、すべての幕に登場する小舟は、トリスタンとイゾルデの愛の象徴であろう。これらのことは、頭で考えるまでもなく、ワーグナーの音楽に導かれて観劇するうちに、おのずから分かってくる。優れた演出とはこう舞台をいうのだろう。

最近のバイロイトは伝統を壊すに急で、演出が音楽の素晴らしさを妨げている。細かな動作ひとつひとつに意味を問わねばならないとしたら、観る者は疲れるだけだ。かといって、2007年のミラノ・スカラ座のパトリス・シェローの舞台など、重々しい装置も含めて、リアルに過ぎる。ワーグナーの音楽は象徴に満ちているのだ。その音楽をそのまま舞台にする、それで成功したのが、今回のヴィリー・デッカーの舞台であろう。

さて、問題の第2幕の幕切れである。ヴィリー・デッカーのプロダクションをこれから観ようとする方のためにも、ここで明かすのはヤボというものだろう。ただ、幕切れ近くの、トリスタンとイゾルデの会話を注意深く聴くなら、この意表をつく終わり方も、決して不自然ではない。いずこに行こうと、二人の魂はともにあるのだから。

60年余の二期会の長い歴史のなかで、今回がはじめての『トリスタンとイゾルデ』だという。まさに満を持しての上演であるが、その思いは十分伝わってきた。タイトルロールの福井敬と池田香織は、大型の欧米の歌手に決して引けをとらない。日本人歌手の水準の高さを改めて実感させられた。もちろん全体を統括したスペインの指揮者、ヘスス・ロペス=コボスが、上演成功の第一の功労者であろう。読響を通して紡ぎ出されるワーグナーの無限旋律に、私はすっかり酔ってしまった。

2016年9月11日 東京文化会館

トリスタン:福井敬
イゾルデ:池田香織
ブランゲーネ:山下牧子
マルケ王:小鉄和広
クルヴェナール:友清崇
メロート:村上公太
牧童:秋山徹
舵取り:小林由樹
若い水夫の声:菅野敦

指揮:ヘスス・ロペス=コボス
合唱:二期会合唱団
管弦楽:読売日本交響楽団

演出:ヴィリー・デッカー

2016年9月17日 j.mosa