「生き抜く」ことと「生き延びる」こと――エドワード・ヤン『ヤンヤン 夏の想い出』

小学生のヤンヤンは写真好きで、人の頭の後ろばかり撮る。そこは本人には見えない部分で、じつは人間は、自分の半分しか認識していないのではないか、と彼は思っているのだ。そんな人間同士が毎日をおくっているのだから、日々問題が蓄積して、厄介な騒動が持ちあがる。そう、『ヤンヤン 夏の想い出』は、まるでチェーホフ劇。

チェーホフは『桜の園』を喜劇だと表明している。しかし悲劇ではないのか? 人間と人間は、理解し合うことが難しい。同じ風景を見ていながら、それは見る人間によって異なる風景になる。悲劇の源泉だが、見方によっては喜劇ともなる。「悲しいのになぜか愉快」あるいは「面白うてやがて悲しき」。

不登校生を支援している友人は、親に対して、「心配いらないですよ。みな、普通のおじさん、おばさんになりますよ」と言うそうだ。心配することはない、と親を安心させることがまず重要だが、「普通のおじさん、おばさんになる」という言葉もみそである。この映画は、そんなおじさん、おばさんの映画であり、彼らの喜びと悲しみの映画である。おじさん、おばさんは、この映画を観て、胸を撫で下ろすかも知れない。いや、安心できるか、また不安になるか、それは保証の限りではないけれど、ああ、みな、自分とそんなに変わりはないんだ、とは感じることだろう。

ヤンヤンは、コンピュータ会社を経営する父NJと母ミンミン、高校生の姉ティンティン、優しい祖母と一緒に、何不自由ない生活を送っている。ある日、その祖母が、急な脳梗塞で意識を失う。話しかけることが大事だと、家族はそれぞれ彼女に話しかける。母親は、2日間話し続けるけれど、もう話題はない。私の人生はいったい何なんだ、と悲嘆にくれる。あるいは、朝起きて、今日は何をすればいい、と時間に余裕がある人たちは不安にかられる。こんな人生でいいのか、と。

生まれたからには何かを成し遂げねばならない。何かを創造しなければならない。そうでなければ生まれた価値はない。おじさん、おばさんも、たまにはこんなことを考えないことはない。しかし概して、毎日を生きることに精一杯である。「生き抜く」という主体的な行為ではなく、何とかして「生き延び」なければならないのだ。普通のおじさん、おばさんの、愛おしい人生である。

人生は複雑だが、ひょっとして単純なのかも知れない。父親は、30年を経て、初恋の人に再会する。仕事にかこつけて、ふたりは日本を訪問する。緑深い寺を散策する映像は美しく、熱海の旅館も登場して、日本の観客へのサービスも満点。ここで、人生をやり直したいと女性に迫られるのだが、彼は「君だけを愛している。でも、人生は何度やっても変わりはないだろう」とその言葉を受けつけない。

この父親の騒動は、高校生の娘の恋愛事件と同時進行して、ふたつの映像が見事に重ね合わされる。その美しさに見とれながら、恋とはなんだろうと、改めて考える。心沸きたつものでありながら、何とも厄介なものだ。

映画は2倍、3倍、人生に彩りを添える、と監督エドワード・ヤンは、映画愛を素直に語っている。彼は、この映画を最後に、2007年、60歳でこの世を去った。名作を残してくれたことに感謝しながら、その早過ぎる死を、心から無念に思う。あと20年、いやせめて10年でも、生き延びていてくれたなら。

2026年1月3日 於いてキネマ旬報シアター

2000年 台湾・日本映画
監督・脚本:楊徳昌(エドワード・ヤン)
製作総指揮:河井真也、附田斉子
出演;呉念真(ウー・ニエンチェン)、金燕玲(エレイン・ジン)、張洋洋(ジョナサン・チャン)、李凱莉(ケリー・リー)、イッセー尾形
音楽:彭鎧立(ポン・カイリー)
撮影:楊渭漢(ヤン・ウェイハン)
編集:陳博文(チェン・ポーウェン)

2026年1月13日 j.mosa