ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』を読んで心を揺さぶられた人は多いだろう。わたしもその一人だが、疑問を抱いた点が二つある。ひとつは、知的障害者の主人公チャーリーの抱える世界が暗く、障害を持たない者のそれが明るいものと思わせる書き方である。かつて石牟礼道子は『苦海浄土』で水俣の子供について表現した。障害を持つ子供の思い描く世界は、わたしたちが先入観を持って予想するのと逆に明るいのだ、というようなことを。チャーリーの場合がそうでないと、誰がいえようか。

もう一点は、主人公チャーリーが通う学習クラスの女性教師アリスの最後の行動というか無行動に関わる。チャーリーを取り巻く人々のなかで、彼女は最も彼を理解しようとし、そして一個の人間として情愛を抱いた人間だ。チャーリーの脳手術が束の間の成功をへて元の世界へと戻るとき、ささやかな惜別の仕草があってほしかった。

さて、ここからは小説ではなく映画『アルジャーノンに花束を』の話である。原作は同じだからまずは同工異曲。決定的に違うのは上記第二点のアリスの立場にある。こちらのアリスは、頭脳明晰になったシャルル(チャーリー=チャールズのフランス語ヴァージョン)が音楽に挑戦しようとして選んだピアノ教師だが、街で見かけてほれ込んでいたのだった(映画の舞台はスイスのジュネーヴ)。彼女は片足が不自由という肉体的障害がある。

シャルルの過去を知らず、初心者から3か月でモーツアルト弾きこなす天賦の才と素朴な態度に彼女は心惹かれ、二人は恋人同士になる。だが、彼女の誘いに反して、彼は一線をどうしても越えようとしない。現状は投薬で天才並みのIQに達してはいるが、それがいつまで続くか保証はないからである。事実、しばらくすると薬効に疑問が出始める。それと呼応してシャルルはアリスやその親に嫌われる言動をとり始める。

明敏な頭脳で薬効の停止と自己の旧世界復帰を確信したシャルルは決意する。同じ投薬をしたハツカネズミのアルジャーノンを抹殺し、自分の過去(すなわち未来)をアリスに知らしめることを。彼女はビデオ映像を通して投薬以前のシャルルの姿を知る。がその一方で、いつ決心したかは不明だが、ジュネーヴを辞してパリの音楽学校の教員になる予定だという。こうして出発前、シャルルの住む家の扉越しに、彼の現在の姿を見ることなしに、「愛している」と告げて去ってゆく。

束の間の「天才」に惚れたアリスがシャルルの現実をそのまま受け入れられるかどうか、この最も根源的な問題が問われることは、ない。映画としては、うまく回避した結末といえるかもしれない。もっとも小説と同じ疑問はやはり残る。投薬前のシャルルが度の強い眼鏡をかけ、薬効が出るにつれて眼鏡の度が下がってゆき、あげく実験を主導した教授に感想を聞かれて、「世界が明るくなった気がする」と答えさせているのだから。この映画監督にとってもシャルルは、暗い世界から明るい世界へ、そして再び元の暗い世界へ、という図式なのか。いや、目も眩むほど大量の、フェイクも含む情報に覆いつくされているわたしたちの世界ほど、じつは暗い世界はないのかもしれない。

かくいう自分も、白状するが、明るい(?)側にいるという怪しい安心感から、この映画の流れを眺めていたにすぎない。でも、それを了解させてくれたことは、この映画の大きな功徳だと思う。

蛇足ながら最後に、映画の作り云々とは別して付け加えておきたい。それは、シャルルを演じたジュリアン・ブワスリエの笑顔というか、はにかんだその顔の、筆舌に尽くしがたい柔らかみ、のことだ。ブワスリエは生来の引っ込み思案を克服しようとして演劇を志したといわれる。さもありなん。自己主張せざるは死者も同然とばかりにまくしたてる人が多いフランスで、おや!こんな笑顔が…と納得したい人には、お薦めしたい一品。

2006年 フランス映画 ダニエル・キイス原作

監督 ダニエル・デルリュー

出演 ジュリアン・ブワスリエ(シャルル)

エレーヌ・ドゥ・フジュロール(アリス)

 むさしまる