ねじめ正一の『高円寺純情商店街』(1989年直木賞)を覚えているだろうか。高円寺駅の北側を線路に沿って東西に走る商店街を少年の目で描いた、これぞ昭和といった物語である。その高円寺を台湾の首都台北に移してみると、魔法のようにもう一つの「純情商店街」が脳裏に浮かび上がってくる。これが今回の小説『歩道橋の魔術師』(呉明益著、河出文庫)の舞台である。

1980年代後半あたりの台北、そこの「中華商場」というショッピングモールが舞台だ。鉄筋3階建ての棟がいくつの連なり間狭な小売店がひしめいて、その数は千軒を越えたという。本のカバーには筆者自身による商場の絵が載っている。電車の車両みたいに並ぶ棟の最前部には、バカでかい広告塔がデンと鎮座してあたりを睥睨している。文字は「器電下松」、「National」と読める。「器電下松」という文字列には時代の刻印がある。日本の植民地統治を想起してもいい。

この「中華商場」そのものを映像にした格好の映画がある。侯孝賢(ホー・シャオシェン)の『戀戀風塵』がそれで、オートバイを盗まれた主人公が仕返しをと物色する場面がまさしくその「中華商場」である。乱雑にものが置かれた狭くて暗い店先、ちょっと見にはうらぶれて華やかさとは縁遠い、日本のどこかで見たような光景がそこに広がっている。

「中華商場」には様々な人々、あえていえば複数の「人種」がひしめく。戦後に一旗揚げようと田舎から上京した本省人、国共内戦の難を逃れて大陸からやってきた外省人、山間での暮らしに見切りをつけた先住民(台湾では原住民という)……、ほとんど国際見本市の趣がある。

少年の目に映ったこの多様な出自の人々とその暮らしぶりは、ちょうど縁日の夜店を眺めたときのように、雑多な臭い、騒がしい人声、色とりどりの電球、何の統一性もないむき出しの人と人と人…そんな感触だ。それは『高円寺純情商店街』でも感じられることだが、決定的な違いは、こちらの「中華商場」には魔術師というか手品師というか、主に子供たちを相手に手品を見せてガラクタを売りつける奇妙なおじさんがいることだ。大概は安手の手品だが、ときに、奇想天外な世界を垣間見せてくれることもあって、そのときこそ、見ている少年たちだけでなく、この本を読んでいる読者さえも異次元の空間を旅することになる。

籠に入った文鳥を使った手品(生きた文鳥を一度死なせて、また生き返らせる)の後で、手品師はこんなふうにいう。

「あれは、マジックの時間のなかで起こったことだ。マジックのあいだは、かごのなかの時間と、わたしたちがいる歩道橋の時間は進み方が異なる。そのとき、誰か人間の手が、その時間に干渉したら、鳥は戻ってこない」

ふーん、マジックの世界では違う時間が流れているのか。この小説のなかで流れる時間もまたそうかも知れない。昭和の時間を逆回したような「器電下松」の時代のなかに、ポッカリと異次元の時空間が歩道橋のある部分にだけ現れる。人はこれをマジック・リアリズムと称するらしい(妥当かどうかは知らないが)。

むさしまる