鶴見俊輔が逝った。享年93歳。大学という場所に早々と見切りをつけて、自由な発言をした人だ。鶴見たちの手になる共同研究『転向』には、学生になりたての頃、多くの教えを受けた思いが強い。とりわけ橋川文三の、論理的かつ文学的芳香を感じさせる論考には、思わず、こんな先生の教えを受けられたらな、と密かに焦がれた。
個別には橋川の論文に心酔したのだが、全体的に見れば、わたしにとって一番の発見は、ひとつのテーマを複数の人々が様々な切り口から考えるという発想そのものだった。ところが、そんなチームワークの長所を、一人でできるからあんな共同研究はやらない、と吐き捨てるように言う人もいる。そして、鶴見のような発言を、専門分野を持たないジャーナリスティックな放言、とくさす。
その鶴見の仲良しに日高六郎がいる。彼もまた、大学紛争を機に学校を見切り、フランスに渡った、わたしに言わせればもっとも純度の高いインテリ、あるいはもっとも感受性の鋭いインテリだ。とはつまり、「インテリ」と言われることにある「引け目」や「うしろめたさ」を感じ、一見インテリに見えないインテリということである。
その日高六郎が、40歳ほど年下の孫に近い年齢の黒川創を相手に対談をし、一巻の書とした。題して『日高六郎・95歳のポルトレ』(新宿書房)。
内容とは別に、読んでいてなんとも心地よいのは、日高が黒川を遇するときの、まったく対等の相手と話すがごとき態度である。老爺は「青二才」の言葉に耳を傾け、まことに素直に応じ、ときには批判に対して反省の弁を口にする。自由な精神とは、こういう生身の人間に対する基本的態度をいう。
たとえば、こんなやりとりがある。少し長いが、日高の人品骨柄が(そして、黒川の歯に衣着せぬ率直な態度も)よく現れている箇所がある。
―フランスの社会では、今のようなひどい政治は許されません、こんなことを政府がしていたら連日デモですよ」と、日高先生はフランスに住みながら、ときどき日本に帰ってきて、そういうお説教をしてまた去ってゆく。でも、普通の人は、そういう暮らし方をするわけにはいかない。たとえばですが、そういう話法が、「評論家的」とか言われて、反発を招いてきたのではないですか?
日高 うふふふ。そうね。でも、あんまりそういうことをね、僕に直接言う人はいないよ。ははははっ。けれども、そう考えている人はたくさんいる。それはよく知っています。
―こんな、なかば腐ったような国でも、ここに暮らす者たちは、なんらかの抵抗をするなり、ある程度あきらめるなり、これとの折り合いのつけかたをそのときそのときで考えていかなきゃいけない。ですから、「フランスだったら」という条件のつけかたをできるような人びとは、ひるむところがあって当然だと思うんです。
日高 そうそう。そうです。そう思います。
このほか、珠玉のことばがポロッと漏れてくる。いわく、「大学の自由に対して敏感でないところで、学問というものは生まれないと思う」とか、「…つまりね、知識人より一歩前に出たわけよ。(…)自分でそういうことを言うとイヤミになっちゃうかもしれないけれども、怖いながらも、一生懸命、一歩出ようとしたわけ。(…)〔韓国に〕行った以上は、一歩出なければいけない。そこに自分を位置づけたい。そういう知識人、評論家でありたい」。
耳朶に小気味よいこれらの言葉のなかで、わたしにとって最大の収穫は、この一句。
「自分の一生をものさしとして時代を見る。そういう歴史観も必要だろうと思う」。
そうなのだ。むろん、マクロな歴史観は是非とももちたい。けれども、そうした抽象的な歴史観は、ミクロな歴史観に支えられてはじめて意味を有するいえるのではないだろうか。自分という生身の身体と、その身体が触れてきた同じ生身の人々、その人々が築き上げている時代を見るまなざしの重要さを忘れないようにしたい。日高のこの一言に触れるだけでも、220ページを追う価値がある。
むさしまる。