人間の原罪をみつめる——篠田桃紅の人生哲学

9月20日の日曜日の朝日新聞朝刊に、私に強い印象を与えた老女の著書の広告が大きく出ていた。『一〇三歳になってわかったこと』というタイトルの横で端然と座すその老女の横顔は、まことに美しい。この老女、篠田桃紅の番組を偶然観たのは、もう何ヶ月も前のことである。いい機会でもあるので、そのときの印象も含めて、メモを参照しつつ、桃紅さん賛を以下に記したい。

奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の
声聞く時ぞ 秋は悲しき

目覚めたばかりなのか、不機嫌そうにふらふらと仕事場に入ってきた桃紅さんは、手近にあった和紙に、有名な和歌をさらさらと書き下した。書についてはほとんど知識のない私だが、静かで繊細なその文字の美しさには、うっとりと見とれてしまった。

すると彼女は、誰に話すともなく、人間の孤独についてポツリポツリと語りはじめた。独りで生まれて独りで死ぬ、人間は本来的に孤独であること。そして分かりあえるものではないこと。けれども、独りで暮らすことを淋しいと思ったことはない、とも。

人間のエゴイズムについても語る。人はみな自分を愛している。自分を捨てて他者を愛するなんて、なんだか怪しい。

人間の孤独といい、人間のエゴイズムといい、いわば人間の背負った業、あるいは原罪といってもいいのかもしれない。文学の永遠のテーマでもある。チェーホフはこのテーマを見事なヴァリエーションに仕立てているし、太宰治はその重さに耐え切れず自死した。また夏目漱石は、胃の死病に苛まれた。いずれも、ガラスのように鋭利で繊細な神経の持ち主だった。

桃紅さんは、この原罪を背負って、また十分に認識して、103歳まで生き延びた。この事実だけでも驚嘆に値するが、現役の抽象画家である。たまたまつけたテレビ番組は、たった1時間の短さだったが、この芸術家の全貌をみごとに表現していた。

一本の線を墨で描く、このことの大変さを、彼女は実感をこめて語る。いまだに思っているような線を描けない、と。より高い完成度を求めて、倦むことを知らぬ芸術家の情熱——これはもう宿命、それも悲痛な宿命というほかない。自分の芸術はやり尽くした、あとは穏やかな日常を生きたい、というわけにはいかない。

いっぽう、なにかをつくり上げること、なにかを成し遂げること、これらのことを人生の目的に据えるべきだとは、とてもいえない。ただ人は、生まれたからには生きねばならないのだ。生き延びることこそが重要である。桃紅さんのような人は、創作こそが生き延びる手段なのだろう。

その厳しい創作の毎日は、凡人のなんでもない日常と少しも変わることはないのだと思う。生きるということは、凡人にとっても、芸術家にとっても、同じようにやっかいなことなのだ。しかし、恐れるに足りないことをも、桃紅さんは教えてくれている。

2015年9月23日 j.mosa