筆にしろペンにしろ、自画像を描くことは思うほど簡単ではないのではないだろうか。自分との距離の取り方がむずかしい。「わたしは、わたしを見るわたしを見ていた」などと謳った詩人の真似を誰でもができるわけじゃない。ちょっと憧れるけれど。「自分を描く小説は書けない」と白状した日本の小説家の言葉は、そういうわけで、納得できる。
そのことを再確認させてくれた本が今回お勧めの本『敗北を抱きしめて』(ジョン・ダワー著 岩波書店)である。これを手に取るきっかけになったのは、さる評論家の恨み節の一句だった。いわく、「勝者のアメリカ人に、(敗戦国の我々が書くべき)こんな本を書かれてしまった」と。終戦前に『菊と刀』で裸にされた日本の心性が、敗戦直後のわたしたちまでもが、ものの見事に分析されたというわけだ。
かぎりなく口惜しい!との心情はわたしにも分かる気がする(敗戦を生きた世代と決定的差異があることを承知しつつ)。だからこそ手に取ったのだけれども、読後感はまるで違った。敗北者が自己の敗北をこんなに冷静に描くことはできまい。文学的自画像ならともかくも、歴史的記述として、自分たちのみじめな敗北をここまで客観的に書けるのか?と。
たとえば映画『浮雲』で、高峰秀子演ずる幸田ゆき子が闇市近くのバラックでロイ・ジェームス扮する進駐軍兵に抱きかかえるように守られて歩くシーンを思い浮かべてほしい。
監督成瀬の映像は冷静に、ものの見事に「敗戦直後」を描いている。それは闇市の雑踏や銀座のパンパンについて語るジョン・ダワーの筆致と重なる。
けれども、これこそ地の利というべきか、同じ筆致で憲法草案や極東裁判が活写されるとき、これは当事者には不可能な視線だと思わざるをえない。完膚なきまでに叩きのめされた者の、惨めさと悔恨と絶望と少しばかりの夢を抱えながら、幸田ゆき子と東条英機を同じレベルの静かなまなざしで見つめることは神業に属する。
そんな『敗北を抱きしめて』(上下巻で注を含めてほぼ1000頁)を立て続けに読み返すことになった。読み返さずにはいられなかった。なぜか。ある意味で現在のわたしたちの原点だと感じたからである。しかし、それだけではない。筆者の冷静な筆づかいの奥に、この国の民に対するまぎれもない「共鳴音」が響いているからなのだ。「敗北」を抱きしめているのは、わたしたちだけではない。
むさしまる