レオンハルトの伝統を引き継ぐ――バンジャマン・アラールのチェンバロ
じつに11年ぶりにチェンバロの演奏会に出かけた。その音色は多彩で、品があり、奥行きの深さがある。若い音楽家の奏でる音色とは思えない。私は、もはや伝説となったグスタフ・レオンハルト(1928~2012)の、涼やかな長身を思い浮かべながら、その演奏に聴き入った。
2011年、東日本大震災のあった年の6月、レオンハルトは、ほとんどの海外演奏家がキャンセルするなかを、日本を訪れてくれたのだった。当時すでに83歳。私にとって3度目のレオンハルト体験は、感激を通りこして、祈りに似た感動をもたらした。深い学識に支えられたその音楽は、端正でありながら、自由の気配に満ちていた。
チェンバロ、オルガンに限らず、現在古楽に携わる音楽家で、レオンハルトから影響を受けていない者はいないだろう。レオンハルトは、ニコラウス・アーノンクール(1929~2016)とともに、古楽の道を切り拓いてきた。アーノンクールが現代音楽にまで活動範囲を広げたのに対して、レオンハルトは、自らに敷かれたー本の道を、わき見などすることなく、静かに、堅実に歩いたのだった。
チェンバロ・オルガン奏者であるアラールは、当然のことながらレオンハルトの影響を深く受けている。彼はフランス生まれだが、バーゼルのスコラカントルムで学んでいる。そして、その卒業証書は、レオンハルトのもとで授与されたらしい。それはともかく、彼の奏でるチェンバロは、レオンハルトを彷彿とさせる要素に満ちていた。
前半のプログラム最後の演目『協奏曲ハ長調BWV976』は、アラールの技量を発揮する格好の曲だった。ヴィヴァルディの『ヴァイオリン協奏曲RV265』からの編曲で、晴れやかなイタリアの空を思わせる曲。私の席からは、2段の鍵盤上を自在に躍動する彼の両手がよく見える。圧巻の演奏であった。
後半の2曲、『フランス風序曲ロ短調BWV831』と『イタリア協奏曲へ長調BWV971』は、バッハ50歳の、1735年の作品。2曲合わせて『クラヴィーア練習曲集第2巻』として出版された。フランスのオーケストラ組曲とイタリアの協奏曲を念頭においた、バッハ円熟期の作品である。前半から後半へと、プログラムもよく考えられている。
『フランス風序曲』は30分近い大曲。とりわけ第1曲の序曲は10分を超える。確固として荘重な演奏は、それこそレオンハルト。そして、よりポピュラーな『イタリア協奏曲』。我が家には、グレン・グールド(1932~1982)とフリードリヒ・グルダ(1930~2000)のピアノ演奏のCDもある。
『イタリア協奏曲』の第2楽章「アンダンテ」は、短いながら私の大好きな曲である。上段鍵盤の低音に支えられて、下段の右手が幻想的なメロディを奏でる。バッハのロマンティシズムがこれほど見事に表現された曲も稀であろう。アラールの情感豊かな演奏に触発されて、帰宅してからレオンハルトのCDを聴いた。なんと自由で、深々と心に染み入る演奏であることか。録音年をみると、1965年とある。レオンハルト37歳!
現在36歳のアラール、これからの活躍がますます楽しみである。彼は現在、バッハの鍵盤音楽全集を録音中である。
2022年5月11日 於いて浜離宮朝日ホール
シンフォニア第5番変ホ長調BWV791
フランス組曲第4番変ホ長調BWV815
トッカータト長調BWV916
協奏曲ハ長調BWV976(原曲:ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲RV265)
フランス風序曲ロ短調BWV831
イタリア協奏曲へ長調BWV971
2022年5月25日 j.mosa