明日もまた生きていくために――アッバス・キアロスタミの映画
臨場感という言葉がある。その場に居合わせる感覚だが、アッバス・キアロスタミの作品ほどその感覚を味わえる映画は少ない。たとえば車を運転する場面。『桜桃の味』や『そして人生はつづく』。『風が吹くまま』もそうかも知れない。主人公と同じように自分も車を運転している。そして窓外の荒涼とした風景を眺めている。また、助手席に座る同乗者と会話を重ねている。カメラの視点は主人公のそれのように動くし、それはそのまま自分の視点になっている。
『桜桃の味』の主人公は生きる意味を見失っている。山の中腹に穴を掘り、その中で睡眠薬を飲もうとしている。翌朝その穴に土をかけてくれる協力者を探して、車を走らせている。大金を得られるとはいえ、そんな要求にこたえてくれる者など簡単にいる訳はない。ある意味非現実的なこの場面が、自分の意識と同調して現実味を帯びてくる。自殺することに明瞭な理由などない。そして、彼は、自分は、迷っている。
キアロスタミの映画のなかにドラマを見出そうとしても無駄である。単調な出来事が延々と続く。それはまるで私たちの日常のようだ。しかしその日常が、不思議なことに詩(うた)になっている。生活の詩(うた)に。日常を取り巻くイランの風景が荒涼として美しいし、山麓の、漆喰で白く塗り固められた粗末な家々が、なんと魅力的なことか。そのなかを人々が行きかう。
キアロスタミの映画には、プロの俳優はおそらく少ない。『風が吹くまま』の、村の茶店の横柄な中年女性と怠惰な夫など、登場する村人はみな素人に違いない。そのことで、観る者はドキュメンタリーを観ている錯覚にとらわれる。それにしても、主人公の走り使いをする少年の、可愛くてなんと生き生きしていることか。キアロスタミは、子どもの扱い方の天才である。
日常のなかの小さな出来事。キアロスタミは、それらを優しく見つめることで、生きる意味を見出そうとしている。『オリーブの林をぬけて』の主人公は、貧しく、文字も読めない青年である。そんな彼が、教養豊かな、裕福な家の女性を好きになる。彼女にも、その家の人たちにも、まったく相手にされない。それでも彼は、愚直にアタックをし続ける。手練手管を用いることはまったくない。観る者は、微笑みながらも、あきれて見守るしかない。最後は、オリーブ林を眺望する場面。その林のなかを、そしてそれを抜けて、小さなふたつの影が遠望される。美しく、まことに印象的な終幕である。ふたりは結ばれるにちがいない。
思うように仕事が進まない主人公は、丘の上の墓地で、カメを蹴とばす。カメは仰向けに転げたまま。何度も失敗を重ねたあげく、元に戻ってまた動き出す。別の日、同じ場所で、彼はスカラベを見つける。無心に糞をころがす小さな虫に、彼の心は和むようだ(『風が吹くまま』)。ささやかな自然の豊かさである。
大地震で壊滅的な被害を受けた村を主人公は訪ねようとしている。3万人以上が死亡した1990年の大地震である。『そして人生はつづく』は、この地震の被災地をそのまま背景としている。大きな岩々が道を塞いで、容易に車を進めることができない。途中のテント村では炊き出しも行われている。こんな大混乱のなか、ひとりの若者はテレビのアンテナを丘の上に建てようと夢中である。それは当夜のサッカーのワールドカップを観るためだった。庶民の生命力!
『桜桃の味』で、最後に車に乗せた老人は自らの体験を話す。首を吊って自殺しようと、桑の大木を選んだ。ちょうど実が熟れるころで、その一粒を口にする。その甘いこと。子どもたちが大勢集まって、大木を揺する。赤い実が地上にぽたぽたと落ちる。そんな自然の営みが、自分を生へと結びつけてくれた、と。
キアロスタミの映画は、背中を、静かに、優しく押してくれる。
2022年4月14日 於いて早稲田松竹
『そして人生はつづく』(1992年)
『オリーブの林をぬけて』(1994年)
2022年6月6日 於いて早稲田松竹
『桜桃の味』(1997年)
『風が吹くまま』(1999年)
2022年6月7日 j.mosa