晩年の恋と創造力――ヤナーチェク『利口な女狐の物語』
レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928)の作品は晩年に傑作が集中している。オペラでいえば、『カーチャ・カバノヴァー』(1921)、『利口な女狐の物語』(1923)、『マクロプロス事件』(1925)、『死者の家から』(1928)がそうだし、弦楽四重奏曲では、第1番『クロイツェル・ソナタ』(1923)と第2番『ないしょの手紙』(1928)が晩年の作品である。村上春樹のベストセラー『1Q84』で事件の核心場面に流れる『シンフォニエッタ』(1926)もその例にもれない。
1917年夏、63歳のヤナーチェクは、ひとりの女性と出会い恋に落ちる。相手は25歳のカミラ・シュテスロヴァーで、ふたりの子どもを持つ人妻であった。ヤナーチェクにも妻があり、いまでいうW不倫である。ふたりの関係は精神的なものであったという説もあるようだが、性的関係があろうとなかろうと、恋愛には変わりはない。そして、この恋情が、ヤナーチェク晩年の傑作群を産み出したのは、間違いないことだろう。
目前の平凡な風景が、光に満ちて息づく光景になる。頭上を飛び回るトンボやチョウが言葉を持ち、カやカエルでさえ、人の心を惹きつける。『利口な女狐の物語』の自然豊かな世界は、恋の心を持つものでないと表現できない。世界が深みを帯び、立体となって立ち上がるのである。ヤナーチェクは、亡くなるまでの11年間、600通を超える恋文をカミラに送り続けたという。
さて、ヤナーチェクにとって、もっとも重要な作品ジャンルは、やはりオペラであろう。6月11日に、NHKBSプレミアムで『利口な女狐の物語』が放映されたのを機会に、『カーチャ・カバノヴァー』と『マクロプロス事件』のDVDを取り出して、合わせて鑑賞することにした。この3作品は、カミラの3つの側面を表現しているという説もあるゆえに。
ここで特筆すべきは、『カーチャ・カバノヴァー』以降の作品は、すべてヤナーチェク自身が台本も書いていることである。自らが追究したいテーマを、自らの筆で執筆し、それに自ら音楽の命を吹きこむ。作曲家にとって、これ以上理想的な表現形態は考えられない。ここにも、カミラとの恋の影響が及んでいる。創造への限りない意欲!
『カーチャ・カバノヴァー』は、家制度という古い因習のなかで苦悶する女性が主人公である。強い姑と彼女に支配される気の弱い夫。主人公の心は家庭の外に向かうのだが、恋人に裏切られ、自ら命を断つ。悲劇の女性を描いて、音楽は劇的かつ抒情性に満ちている。
前作のリアリズムオペラから一転、『利口な女狐の物語』は、寓話性に富んだ、大人のお伽噺である。だいたい、動物が主人公のオペラなど、この作品以外にあるのだろうか。その主役の女狐、なんとも魅力的である。子どもを脅したり、盗みも働いたりするのだが、自立の精神に溢れている。雄鶏に支配されている雌鶏たちに、自由の意義を演説するのだ。第2幕の、男狐との恋の場面は、このオペラのハイライトで、音楽は女狐の美しさを強調して、すこぶる官能的である。
このオペラの主人公は、女狐というよりも、「大自然」といったほうがいいのかも知れない。自然に抱かれて生あるものは生き、愛しあい、子孫をつくり、老いて、死んでいく。その繰り返しは、虫も動物も人間も変わるところはない。そんな大自然の営みを表現して、このオペラを超える作品を私はほかに知らない。
事件という言葉がタイトルにあるように、『マクロプロス事件』は、ある意味サスペンス劇である。それも遺産をめぐっての。しかも鍵を握るのは300年間も生きてきた女性。このオペラはSFでもあるのだ。ヤナーチェクの創造力の広がりには、唖然とするほかない。
300年も生きてきて、自らの子孫の生き死にを観察しなくてはならない。主人公はそんな冷徹な運命を担わされた女性なのだが、まわりの男性を惹きつける妖しい魅力を備えている。ここにもカミラの存在が反映されているのだろう。
空梅雨の猛暑のなかで聴いたヤナーチェクのオペラは、歳を重ねることの豊かさを味わわせてくれた。目の前には、まだ体験したことのない世界が広がっている。
『カーチャ・カバノヴァー』
1998年ザルツブルク音楽祭
指揮:シルヴァン・カンブルラン
演出:クリストフ・マルターラー
(主役のアンゲラ・デノケが好演)
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『利口な女狐の物語』
① 1995年パリ・シャトレ座
指揮:チャールズ・マッケラス
演出:ニコラス・ハイトナー
(バレエを駆使した名舞台!)
② 2008年パリ・オペラ座
指揮:デニス・ラッセル・デーヴィス
演出:アンドレ・エンゲル
(女狐のエレナ・ツァラゴワが官能的)
③ 2022年アン・デア・ウィーン劇場
指揮:ギエドレ・シュレキーテ
演出:シュテファン・へアハイム
(ヤナーチェクを登場させて話が錯綜)
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『マクロプロス事件』
2011年ザルツブルク音楽祭
指揮:エサ・ペッカ・サロネン
演出:クリストフ・マルターラー
(サロネンの指揮が圧巻)
2023年7月11日 j.mosa