認識の手段としての映画――『ハンナ・アーレント』の伝えるもの

ハンナ・アーレントを描いた映画が評判になっているとは聞いていたが、神保町の映画館での上映は観損なってしまった。上映館が新宿に変わったのを機会に、新年早々の1月7日、足を運んだ。100席にも満たない小さなホールだが、ほぼ満席。岩波ホール(200席余)で2カ月近く上映された上でのこの盛況である。このような哲学的な映画に観客が集まること自体喜ばしいことだが、それにしてもこの映画のいったいどこが、人々の関心を集めているのだろうか。

映画にしろ、演劇にしろ、また小説にしろ、「作品」にはテーマが存在する。作者は何かを訴えたいわけで、そのテーマを表現することに技巧を凝らす。「テーマはこうです」と主張することは簡単だが、あからさまな訴えでは人の心に届かない。人が理解し、認識するということは単純なことではないのである。「論文」よりも「映画」の方が、あるいは「音楽」の方がより深く理解できるということもある。『ハンナ・アーレント』は、見事なまでに明解にテーマを提出した。それも「物語」という親しみやすい手段を通して。アーレントやハイデッガーなど読んだこともない人にも、彼らの思想の一端が心に沁み入ったはずである。

1963年、アーレントは、アイヒマン裁判の傍聴記を「ニューヨーカー」誌に寄稿する。いうまでもなくアイヒマンは、百数十万のユダヤ人を虐殺した責任者のひとりである。そのアイヒマンを、残虐な人間などではなく、まことに凡庸な人間である、と表現する。そして、悪は狂信者や変質者によって生まれるのではなく、普通の、凡庸な人間から生まれる、と書く。これはアイヒマン擁護と受け取られ、さらに、ユダヤ人自治組織の指導者が強制収容所移送に手を貸したとする記述は、ユダヤ人の友人たち(たとえば世界シオニスト連盟総書記も務めたクルト・ブレーメンフェルト)の離反を招く。

センセーションを巻き起こした、5回にわたる「ニューヨーカー」誌のレポートは、簡単に書き上げられたのではない。アイヒマン裁判は1961年であるから、2年の歳月を要している。映画は、資料の山を前にして苦悩するアーレントの姿を生々しく描写している。アーレントが、パリのユダヤ人収容所を脱出した経験を持つことをすでに知っている観客は、彼女の懊悩に共感し、その誠実さを疑わない。そして彼女の主張する「悪の凡庸さ」を理解する。それはまた官僚主義の非人間性であり、無責任性である。上からの命令を実行しただけであり、自分には責任がないという論理は、東京裁判でもみられたし、現在の企業社会にも蔓延している。

では「悪の凡庸さ」を克服する道はどこにあるのか? 「考えること」であるという。一人ひとりが、自らの置かれた立場を直視し、いかに行動すべきかを徹底的に考える。いかにも凡庸な解決法だが、これ以外に方法があるとも思えない。いっぽう、考えることの権化であったハイデッガー(アーレントの先生であり、一時愛人関係にあった)が、なぜナチスという悪に協力したのか。これはまた、深刻なアイロニーである。監督のマルガレーテ・フォン・トロッタには、是非ハイデッガーを主題にした映画をつくってほしいものだ。

2012年ドイツ映画

監督・脚本:マルガレーテ・フォン・トロッタ
ハンナ・アーレント:バルバラ・スコラ
ハインリッヒ・ブリュッヒャー:アクセル・ミルベルク
メアリー・マッカーシー:ジャネット・マクティア
ロッテ・ケイラー:ユリア・イェンチ
ハンス・ヨナス:ウルリッヒ・ノエテン
クルト・ブレーメンフェルト:ミヒャエル・デーゲン
於いてシネマカリテ

2014年1月14日 j-mosa