敵討ちを超える普遍的心性――文楽 通し狂言『仮名手本忠臣蔵』

加藤周一は日本人の行動パターンを批判して「忠臣蔵症候群」と評したことがあった。たいしたことはない目的にも関わらず、徒党を組んで盲目的に邁進する姿勢を揶揄したのだろうが、この言葉が頭にあるゆえに、『忠臣蔵』にはずっと距離を置いてきた。今回文楽の公演を観ようという気になったのは、珍しく通しでの上演だったからだ。

10時30分の開演で、終演は21時30分、休憩を含めてなんと11時間! 我ながら驚いたのは、その長い時間のあいだ、少しも退屈しなかったことだ。巧みでスピーディな筋の展開といい、11話それぞれの中身の濃さといい、まことに面白かった。それに、かつて映画やテレビで観た『忠臣蔵』とは、まったく異質の内容だった。

劇のハイライトは当然討ち入りだと思っていたのだがその場面はなく、商人などに姿を変えた浪士たちの苦難の生活も描かれない。辛うじて、祇園一力茶屋での由良助の遊興ぶりが、イメージどおりだったにすぎない。観どころは、六段目「身売りの段」「早野勘平腹切の段」と、九段目「山科閑居の段」である。

おかるが祇園一文字屋に売られようとする「身売りの段」を観ている途中、幼いころ耳にした父の唄が、突如として頭に鳴り響いた。「私しゃ売られて行くわいなぁ父さん(ととさん)、ご無事でぇまた母さんも(かかさん)も」。そうか、あの唄はおかるの身売りの唄だったのかと、懐かしさでいっぱいになった。帰宅してネットで調べてみると、これは「どんどん節」の一節で、明治末期から大正初期のはやり唄らしい。浪曲師の三河屋円車が唄ったという。

さて六段目「早野勘平腹切の段」である。素人芝居で役を募ったら、皆が勘平をやりたがる、という話が落語にあるようだが、これはなかなか含蓄が深い。というのは勘平は、ある意味で落ちこぼれなのである。塩谷判官に近い家来でありながら、刃傷事件のときはおかるとの逢引で現場にはいないし、猪と間違えて人を撃ってもしまう。おまけにその懐から財布を奪うのである。その50両は徒党に入るための金であったにしても。

撃ち殺し財布を奪った相手が、舅の与市兵衛だと思い込んだ勘平の狼狽と苦悩が、「早野勘平腹切の段」の観どころである。豊松清十郎操る勘平が、罪の告白もままならず、じっと床を見つめたまま、耐えに耐える姿は心を打つ。それは大きな罪を背負い込んだ人間の、ぎりぎり苦しむ姿であり、落ちこぼれを遥かに脱している。

腹に脇差を突き立てたところで、殺した相手が与市兵衛ではなく、盗賊定九郎だと分かる。結果的には舅の敵を討ったことになるのだが、勘平の命も風前の灯。落語に登場する庶民たちも、たっぷりとこの不条理劇を味わい、振り幅が大きく人間味溢れる勘平に、深く感情移入したのに違いない。

娘は遊里に売られ、夫は盗賊に殺され、婿には切腹される。ひとり残された与市兵衛女房こそ、最大の犠牲者である。豊竹英太夫の切々たる義太夫と、桐竹紋壽操る老婆の哀れさには、涙を禁じえなかった。力弥と小浪の、一夜ぎりの夫婦の顛末を描く九段目「山科閑居の段」にも、無常観が色濃く漂う。

『仮名手本忠臣蔵』は、義をひとつの柱に据えながら、断ちがたい親子の情と、狂おしい男女の愛を描いた、長大な人間絵巻であった。人生は無常であり、不条理である。観終わったあと、しばらくこの感慨が胸を浸した。日本文化も奥が深い。

2016年12月15日 国立劇場小ホール
二代目竹田出雲、三好松洛、並木千柳合作
寛延元年(1748年)8月、大坂竹本座にて初演

2016年12月19日 j.mosa