現代音楽は能に通じる!——三木容子 現代ピアノリサイタル
リサイタルの案内を受け取って、度肝を抜かれた。いまの日本のピアニストで、ほかにいったい誰が、このようなプログラムで一夜のコンサートを開くだろうか。よほど意識の高いピアニストでも、現代曲はプログラムの一部に置くにすぎない。ところが、9月11日の三木さんのリサイタルは、シェーンベルク、ウェーベルンを別にしたとして、他はすべてがバリバリの現代曲なのだ。
バッハやモーツァルトやシューベルトを愛する私は、日頃まず現代曲は聴かない。現代に生きていて、同時代の作曲家の作品を聴かないのは、あまり健康的なことではないと自覚してはいる。美術なら現代作家の作品をそれほど避けることはないのだが。聴覚は視覚に比して、保守的傾向が強いのではないか、と思うこともある。
そのような私であるゆえ、当夜のコンサートの批評など書けるわけはない。すべてがはじめて聴く曲であるし、ひとつひとつの作品を聴き分ける耳も持っていない。しかしながら、面白かった。芸術は美しくなければならない、という古い考えを持つ私からすれば、当夜の作品群は芸術を超えている。
では何が面白かったのか? それは、おそらく、日頃聴いている音とはまるで異なる音を体験したことによるのではないか。メロデイはどこを探してもないし、音は容易に繋がらない。しかし音は多彩だった。響きや音の広がりに身を委ねていれば、それはそれで面白いのだ。それと、間(ま)。音と音のあいだに断絶があり、それが緊張感をもたらす。
これはひょっとすると、能の音楽に通じるのか! と演奏の途中から考え出した。耳をつんざく能管の響き。突如として鳴り出す大鼓や小鼓。そしてもちろん、間の自在な使用。会場を覆う緊迫感。古典派やロマン派は能の音楽からは遠いけれど、現代音楽は近い。我ながら大発見である。
シェーンベルクは12音技法を創始して、音を階層性から解放した。彼の作品が入ることによって、現代音楽というものの性格がより明瞭になったように思う。とらえどころのない音の連なりながら、シェーンベルクの音は煌めいていた。わずかながら後期ロマンの香りもする。シェーンベルクがあんなに美しいとは!
最後の演目はまた度肝を抜かれるものだった。長いワイヤーをピアノの弦につないで、インドのシタールのような響きを出していたと思ったら、突如ボクシングのグローブを着けて鍵盤を叩き出した。何度も力いっぱい叩くものだから、ピアノが壊れるのではないかと心配するほど。三木さんは長年ボクシングジムに通っているようだが、その成果がようやく出たか! この曲が一柳作品とはまた驚く。
芸術は、面白くて、刺激的なものでもあるようだ。
ヴァイオリンは高木和弘。
2018年9月11日 東京文化会館小ホール
一柳慧:イン・メモリー・オヴ・ジョン・ケージ(1992−93)
ジョン・ケージ:易の音楽 第1巻(1951)
一柳慧:ピアノスペース(2001)
モートン・フェルドマン:ヴァイオリンとピアノのための小品(1950)
エクステンションズ1(1951)
アントン・ウェーベルン:ピアノのための変奏曲op27(1936)
一柳慧:ピアノクラフト(2010)
アーノルト・シェーンベルク:ピアノ曲 op33a(1929)、op33b(1931)
一柳慧:ピアノ音楽 第4番(1960)、第6番(1961)
2018年9月20日 j.mosa