生命観をめぐる葛藤――ドキュメンタリー映画『フリーソロ』


フリーソロとは、命綱なしに、たったひとりで急峻な岩壁を登るクライミングスタイルのことである。この映画は、難攻不落のヨセミテの岩、エル・キャピタンを、1年以上かけて征服したアレックス・オノルドのドキュメンタリーである。このように要約する山岳映画としても、観ごたえは十分である。

クライマックスの登攀シーンは、それこそ手に汗を握る。その命がけの行為を、何台ものカメラが追いかける。上から、横から、岩裾から。横からのアップのシーンでは、アレックスの喘ぐ声が聞こえる。遠くから望遠レンズを構えるカメラマンは、時に撮ることを放棄してしまう。怖くてカメラを覗くことができない。アレックスの後ろ姿には、死が張り付いているのだ。

この映画は、迫真のロッククライミングのドキュメンタリーである。しかし、アレックスという人間に迫った、じつに優れた社会派ドキュメンタリーでもある。それは、彼が恋人を得てから、さらに深く、普遍的なものになる。彼の友人は、恋人ができたことを危ぶむ。命がけの行為には、余計なものが入りこむ余地はないということだ。

人間は誰でも、長く生きたいと願う。意識的ではないにしても、いまの日常がいつまでも続くと思っている。アレックスは、そうは思わない。命の長短は、自分には関係ないと言い切る。確かに、そう考えないと、彼の行動は理解できない。なぜ山に登るのか、と問われて、そこに山があるから、と答えたジョージ・マロリー(イギリスの登山家)の言葉は有名である。しかし、アレックスなどが行うフリーソロは、いわゆる登山ではない。

艱難辛苦のすえ、ようやっと山の頂を征服する。山頂に立ち、眼下の雄大な景色を目にしたときの達成感と開放感。登山の快感は、少しの経験しかない私にも十分理解できる。しかし、非日常の世界とはいえ、登山はやはり日常の延長線上にあるのだ。山頂で飲む冷たい水の美味しいこと! 岩登りは、山歩きの登山とは少し趣は異なるけれども、少なくとも命綱は付けている。自分の行為が、命とつながっていることを自覚している。

では、アレックスは、単なる命知らずの冒険野郎なのか。なかなかそうではないのだ。自らを冷静に分析することにかけては、一流のアスリートに引けをとらない。危険に対する己の反応を科学的に知ろうとするし、社会への関心も高い。収入の三分の一は福祉活動に回している。そんな「普通人」のアレックスが、なぜ、「異常」としか考えられないフリーソロをやろうとするのか。

ずっと車上生活だったアレックスが、恋人と住むためにアパートを借りる。そして、生活に必要な冷蔵庫などを買いに行く。新婚生活をはじめるときのような微笑ましいシーンだ。恋人は、こんな生活がいつまでも続いてほしいと願う。しかし、肝心の生命観では、ふたりは相入れることはない。フリーソロに命をかけているアレックスは、明日にでも死ぬことを厭わない。事実、エル・キャピタンへの挑戦の日が近づいている。

なぜアレックスは、フリーソロに挑戦し続けるのか。幾人もの仲間が命を落とし、その生々しい映像を彼は観ている。恋人や母親の心配がひと通りではないことも承知している。それでもアレックスは、岩を登る。命綱をつけることなく。なぜか。この映画にその答えはない。おそらく、彼自身も解は持たないだろう。エル・キャピタンへの登頂に成功したその日(2017年6月)、すでに次への挑戦に向けて懸垂のトレーニングをはじめているのだ。

人間は、孤独で、不可解な存在である。そして、それにもかかわらず、他者と関係を結ばなければ生きてはいけない。この映画は、人間存在の不可解性をあぶりだしたばかりではなく、アレックスと恋人を対比させることによって、分かりあうことの困難さの先にあるものを暗示してくれたのではないかと思う。エル・キャピタンを征服した瞬間、アレックスはまず恋人に電話を入れる。彼女のはじけるような声。彼らの恋は、これからいったい、どのような展開を見せるのだろうか。

本作品は、第91回アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞など多数の賞を獲得した。

2020年6月15日 NHKBSプレミアムで放映

2018年アメリカ映画
監督:エリザベス・チャイ・ヴァサルヘリィ、ジミー・チン
音楽:マルコ・ベルトラミ
撮影:ジミー・チン、クレア・ポプキン、マイキー・シェーファー
編集:ボブ・アイセンハート

2020年6月29日 j.mosa