今年は梅の開花が遅い。例年でも一月半ば、早い年は元旦から、わが家の早咲きの小梅の白い花々が冬枯れの空間を彩るのに、今日(二十四日)ようやく一輪ほころんでいるのがみられた。小梅が満開になる頃、紅梅が咲きはじめ、それから白梅へと移る。だが華やいだ鴬色のメジロの群れがやってきて、花の蜜を吸う姿もまだみられない。

年賀状の話のつづきだが、一月十七日に児童文学者の今江祥智氏から青木やよひ宛ての年賀状が届いた。彼女の年賀状への返礼にちがいないと、私製はがきの切手に押された消印をみたらなんと、(平成)18(年)12(月)30(日)(京都)左京局とあった。彼女の年賀状が届くはるか前に出され、十八日もかけてわが家に到着したことがわかる。これは新記録である。

われらの内なる人種差別主義者

 かつてネルソン・マンデラひきいる黒人たちのアフリカ国民会議(ANC)を支援し、南アフリカ連邦のアパルトヘイト(人種差別)とたたかい、ノーベル賞を受賞したユダヤ系女流作家ナディーヌ・ゴーディマーと、その伝記作家ドナルド・スレシュ・ロバーツとの深刻なトラブルが話題となっている(ニューヨーク・タイムズ書評紙Dec.31,06でのレーチェル・ドナーディオの記事)。

ロバーツはトリニダッド出身の黒人で、オックスフォードに学び、ハーヴァードの法科大学院を卒業し、ウォール・ストリートで弁護士を勤め、黒人初の最高裁判事に選ばれた保守派クラーレンス・トーマス批判の本などを書いた知識人である。90年代にアパルトヘイト反対運動に深い関心をいだき、高給を保証されていた職を辞し、南アフリカに移住したひとである。

そこでゴーディマーに出会い、彼女の信頼をえて、いわゆる公認(オーソライズド)伝記作家となった。最初の草案を読んだ彼女は手紙で、「私が書いたものについてのあなたの透徹した視点は、私にとってさえ啓示的である」と絶賛した。だがANCの勝利後、彼は、数年にわたる彼女自身や友人・知人とのインタヴュー、あるいはさまざまな取材をつづけているうちに、しだいに彼女に批判的となり、とりわけパレスティナに対するイスラエルのやりかたはまさにアパルトヘイトではないか、という質問に否定的な答が返ってきたことにすっかり失望することとなった。

伝記の最終稿は、ゴーディマーを出版しているアメリカとイギリスの出版社に拒否され、南アフリカの黒人独立系出版社STEから『冷たい台所はないNo Cold Kitchen』という題で刊行された。

ロバーツの批判の要点はこうである。つまり彼女のANCあるいは黒人に対する態度は、ANCに同調した白人リベラルに多い、貧しく可哀想な黒人たちを保護し、自由をあたえなくてはならない、という家父長的・宗主国的意識にほかならず、偽善的であるというものだ。

だがこれはひとごとではない。信州大学時代、学生関係の役職で留学生たちの世話をしたことがあるが、われわれ自身の内にひそむ人種差別にしばしば直面する羽目となった。たとえば事務方が彼らの下宿探しに方々に電話するが、「外国人留学生です」と告げると、即座にどうぞという返事がかえってくる。だが彼らをともなっていくと、「すみません、もう先約がありまして」と断わられること多々であった。つまり家主たちにとって外国人とは金髪碧眼の白人であるらしく、実際に訪れる東南アジア人の顔をみて驚き、断わるのだ。

また逆に、アジア系外国人留学生を積極的に受け入れる下宿がある。そこでは彼らは最初に家主の親切ぶりに感激するが、そのうちに彼らの自立や自主性を無視したおせっかいに辟易し、逃げ出すこととなる。つまりそれは、後進国からやってきた可哀想なひとたちを保護し、世話をしてやらなくては、という家父長的保護者意識のあらわれなのだ。それが、顔をみて断わるという人種差別のたんなる裏返しにすぎないことに、善意の家主たちにはまったく自覚がない。リベラル白人に対するロバーツの批判がここにある。

私の内なる人種差別主義者

しかしそれもひとごとではない。私自身の苦い経験にも跳ねかえってくるからである。

1960年代初期、M.L.キング師のひきいる黒人市民権運動に共感し、その後レヴィ = ストロースの『野生の思考』に触れ、誤って未開とよばれるひとびとの精密な思考体系に感銘を受けていた私は、人種差別主義にはまったく無縁であると堅く信じていた。

1971年、合衆国国務省の招待ではじめてアメリカを訪問することとなり、市民権運動の実態や、その頃頂点に達していたヴェトナム反戦運動などにじかに接することができると、喜んで渡航することになった。

最初の訪問地ハワイの空港に国務省の担当者が出迎え、私たち夫婦をマイクロバスに乗せてくれたが、そこにはすでに同じプログラムで招かれた東南アジア系の若い知識人たちが乗りこんでいた。ホノルルの街の一角で彼らは降り、粗末なモーテルに案内されたが、私たちもあんなところに泊められるのか、といささか不安になったものである。だがバスは最後にワイキキ海岸の一流ホテルの玄関に停車し、私たちの宿はここだといわれ、ほっとしたしだいである。

その後ワシントンDCに向かう機中で、突然その記憶自体がまさに人種差別そのものにほかならないことに気づき、愕然とした。東南アジアのひとびとが粗末なモーテルをあてがわれ、われわれが格式のあるホテルに泊められるのを当然と思う、この無意識の感情、東南アジアのひとびとに対するこの無意識の偏見が、人種差別の実体そのものではないか、という深刻な反省である。

ワシントンでは数日、その後の各地訪問の日程づくりのため、さまざまな行事やエクスカーション(遠足)に参加したが、そのたびごとに私は彼らに対して進んで挨拶するよう心がけた。同じプログラムで招待された何人かの日本の知識人もいたが、彼らに挨拶をするのは私だけであったらしく、好意をもたれたようだ。

マウント・ヴァーノンのジョージ・ワシントン記念館の庭園を散歩しているとき、彼らの何人かが嬉しそうに寄ってきて、声をかけてくれた。当時少々のフランス語以外、ほとんど英語が話せなかった私に、これ以上は無理と思ったのか、笑顔を残して彼らは去っていった。あのとき、現在程度の英語が話せたら、彼らと親交を深め、東南アジアに友人や知人をつくれたのにと、いまでも悔やんでいる。

それにしても恐ろしいのは、観念のレベルでのみの理解や確信である。自分は人種差別とは無縁であるという確信が、みごとに砕け散ったあのときの体験以来、私はつねにそのときどきの理解や認識が、自己の感性や無意識の深みにまで到達しているかどうか、疑い、また確かめるようになった。