能は600年の伝統オペラか!——坂井同門会の『松風』

新型コロナウイルスのせいで、コンサートも中止続きである。3月1日のヘンデルの『シッラ』(神奈川県立音楽堂)、13日のフィリップ・ジャルスキーのリサイタル(東京オペラシティ)。いずれもとりわけ楽しみにしていただけに残念でならない。家でひっそり閉じこもっていたら、友人から能のお誘いがあった。

この会の例会はいつも満席で、開場前には長い行列ができるのだが、今回はさすがに人が少ない。500人近く入る宝生能楽堂は100人にも満たない。観客が少ないうえ、換気を良くするためドアを開放している。上演中寒くて仕方がなかった。このように、会場は寂しく、寒々としていたのだが、上演はそれに反して、熱気にあふれたものだった。

日本の芸能や音楽の源泉といわれている能について、私は決していい鑑賞者ではない。それでも近頃は、これまでほとんど顧みることのなかった「日本」という存在を考えてみようと、歴史書を繙いたり、古典芸能を観たりと、それなりの努力をしてきたつもりである。もちろん、国立能楽堂にも足を運んではいる。しかし、能はなかなかに手強い。すんなり入っていけた文楽とは質を異にするものだった。

文楽は大衆芸能である。普通の生活者である私たちの日常感覚と舞台は、それほどの距離はない。親子の情愛や愛しい人への恋情。義侠心への共感に悪への怒り。なによりも、三味線にのって唄われる義太夫は、直接に人の心に訴えかける。さらにその心情を、人形が分かりやすく表現してくれる。

能は、開演の仕方からはじまって、終演のやりようまで、型がある。喜びも哀しみも、素直に表には出てこない。舞が素晴らしいからといって、その場で拍手もできない。舞台も、文楽のような華やかさは微塵もない。松や鐘や船など、演目によっては装置がないこともないのだが、まずはなにもないと思ったほうがいい。すべては観るものの想像力に任されているのだ。ある程度の知識がないと、能は楽しみようがない。

能への、そのような私のわだかまり、あるいは距離感を、当夜の『松風』は吹き飛ばしてくれた。ああ、能はオペラなのだ! うすうす感じていた思いを、強く実感することとなった。主役の松風はアリアを歌い、レチタティーヴォを語る。妹の村雨との二重唱も素晴らしい。地謡はもちろん合唱であり、オーケストラは3人の奏者、大鼓、小鼓、それに能管。鼓奏者たちが時に発する掛け声も、オケの一部である。おまけに松風の、終幕近くの舞!

謡の、高音への突如とした音程の高まりは、西欧のどのようなオペラでも耳にしたことがない。5線譜では表現できない音程である。このような微妙な音程は、謡ばかりではなく、義太夫や長唄、清元などにも頻出する。この、音の多様性は、日本の音楽、さらには広くアジアの音楽の豊かさであろう。

さて『松風』は、話としてはきわめてシンプルである。須磨の浦で松の古木とめぐりあった旅の僧(ワキ)は、それが海士の姉妹、松風(シテ)・村雨(ツレ)の旧跡だということを知る。平安の時代、左遷で流された貴族、在原行平(業平の兄)との悲恋の物語を、僧はわきまえていたのだった。そして、一夜を借りた宿で、姉妹の霊と交歓することとなる。

観どころ、聴きどころは、松の古木を行平と間違え、舞い狂う松風の場面である。すでに霊となりながら、村雨に静止されるほどの狂態。大鼓、小鼓が、激しい掛け声とともに乱打される。そして、空間をつんざくかのような能管の響き。松風の坂井音隆、村雨の坂井音晴両師の、若々しくも切ない舞と謡は、心を激しく揺さぶるものであった。

室町の時代に、これほど素晴らしいオペラが存在し、それが600年余の間上演され続けてきた。西欧のオペラの歴史よりさらに200年も遡る。日本の文化、畏るべし。つくづくそんな感想をもった一夜であった。坂井同門会には感謝申し上げる。

2020年3月10日 宝生能楽堂

観阿弥作、世阿弥改修
松風:坂井音隆
村雨:坂井音晴
旅僧:大日向寛
里人:山本則孝
大鼓:柿原弘和
小鼓:曽和正博
能管:松田弘之
地謡:中家美千代、藤田智子、小野栄二、古枝良子
武田照、藤波重彦、坂井音重、坂井音雅

2020年3月13日 j.mosa