いまなぜ『バガヴァッド・ギーター』なのか

北沢方邦
(2013年8月12日、聴き手森淳二)

●フクシマとヒロシマの悲劇を克服する思想

西村朗さんに新作オペラを委嘱するにあたって、演目は『バガヴァッド・ギーター』以外には考えられませんでした。古代インドの大長編叙事詩『マハーバーラタ』の一節である『バガヴァッド・ギーター』については昔からなじみがあったのですが、2011年3月11日の福島第一原子力発電所の大事故に接して、『ギーター』に登場するクリシュナの言葉が鮮明によみがえったのです――「われ、世界を滅亡に導く大いなる死、大いなる時なり、諸世界を打ち砕くためにここに来たれり!」。
この一節は、合衆国ニューメキシコ州のロスアラモスでの原爆計画を主導したオッペンハイマーが、1945年、その世界で初めての原爆実験での大爆発を目の当たりにしたときに想起した言葉でもあります。ヒロシマとフクシマは奥深いところで通底している。そして、その悲劇を克服する道は、『バガヴァッド・ギーター』に託された思想にこそあるのではないか、強く、そう思いました。

●「バガヴァッド」とはなにか

『バガヴァッド・ギーター』では、クリシュナが御者の姿となって、勇者アルジュナを助け戦いの勝利に導きます。このクリシュナこそがバガヴァッドなのです。「バガヴァッド」はサンスクリット語で「神」という意味です。「ギーター」は「歌」、つまり「バガヴァッド・ギーター」とは「神の歌」ということです。戦いを躊躇するアルジュナにクリシュナが説く教え、これが「バガヴァッド・ギーター」です。
ヒンドゥー教には三つの主神が存在します。まずブラーフマで、これは宇宙の創造神。この神はインドの人々にとってやや遠い存在です。親しまれているのはヴィシュヌとシヴァで、ヴィシュヌは救済神、シヴァは死と破壊の神です。のちにヒンドゥー教はこの二派に分かれます。そして、クリシュナはヴィシュヌの化身なのです。

●クリシュナの二面性

クリシュナは、アルジュナが総大将であるパーンダヴァ軍を鼓舞して、カウラヴァ軍を撃滅します。この限りでは、クリシュナはアルジュナの友人です。ところがある瞬間に変貌して、恐ろしい神となる。死と破壊の神になるのです。救済と破壊というクリシュナの二面性を見せることによって、アルジュナに世界の相の真実を示したことになります。
そしてこの二面性は、原子力の二面性につながると思います。このことをオッペンハイマーはよく知っていた。それで、原子爆弾の大爆発のとき、『バガヴァッド・ギーター』の一節を思い出したのです。このクリシュナの二面性は、現代文明にも通じると私は思います。

●現代は「カーリ女神(死と破壊の神)」が支配する時代

変身の場面で、クリシュナは、「私はカーラである」といいます。「カーラ」は「時間」を意味しますが、時間は「死」も意味します。「カーラ」はサンスクリット語の男性形で、女性形にすると「カーリ」となります。神話にはこのカーリの名をもつ女神が登場します。シヴァの妻であるパールヴァティの化身です。
カーリが出現するときは真っ黒な顔です。骸骨のネックレスをし、髪の毛はとぐろを巻くコブラ。ヒンドゥー教では、今の時代を「カーリ・ユガ」、つまり「カーリ女神が支配する時代」といっています。「死と破壊の女神が支配する時代」というわけです。
「カーラ」は男性形ですから、「私はカーラである」とは、シヴァ神そのものが出現したと受け取られます。
オッペンハイマーは、ロスアラモス、ヒロシマ、ナガサキでシヴァ神を見たのです。私はフクシマの原発事故で、同じ神、シヴァ神を見ました。そして思い起こしたのは、『ギーター』の一節でした。

●「戦う」とはどういうことか

クリシュナは迷うアルジュナに、戦え、行動せよ、と激励します。欲望を捨て、自我を捨て、自分(クリシュナ)を信頼して行為せよ、それは自ずから正しい道に導かれる、というのです。
憲法第九条をいただく日本人としては、戦いをやめるというアルジェナこそ賞揚すべきですが、クリシュナは戦うという行為(カルマ)に賭けるべきだ、と説きます。それは何故か?
カルマこそ人間の存在の表現にほかならず、カルマ、または身体性を忘れたところに近代文明の誤りがあるからです。行為と、そのもとである身体性を忘れたがために、近代文明は自己のおこした行為を忘れ、ヒロシマやフクシマの惨事をもたらしたのです。
仏教ではカルマは業(ごう)と訳され、良き業を積んだ人は死後浄土に、悪い業を積んだ人は地獄に落ちるとされていた。カルマとは、それほど重要なのです。クリシュナは人間にとってのカルマの意味を説いたのでした。
アルジュナは戦います。戦士であるアルジュナの行為とは、戦いでしかないのです。そして行為しないことには現状は変えられない。その戦いの結果……すべてが死に絶える。諸行無常の世界です。
『マハーバーラタ』最後の場面では、アルジュナの前にヒマーラヤの山々が現れます。彼はそれらの山々を伏して拝んで、悟ることになります。これこそが「シャーンティ」だと。ヒマーラヤの静寂と澄み渡った青空のもとで。

●「シャーンティ」とはなにか

クリシュナの二面性と同じように、現代文明も二面性をもっています。人間そのものが、根源的に二面性をもっているともいえます。自分自身でその負の部分を認識し、克服していくしかありません。
『ギーター』の教えをひとことでいえば、宇宙を動かしている法則(ダルマ)を自分のなかに取り込み、実現しなければならない、ということです。クリシュナがヒマーラヤで体得したシャーンティを、個人としても、集団としても獲得しなければならない。
「シャーンティ」とは、「絶対的な平和」または「神の平和」と訳してもいいかもしれません。このシャーンティこそが宇宙の法(ダルマ)であり、人々が、あるいは社会が目指すべき境地なのです。
シャーンティの考え方が普遍的になって、たとえばアラビア語では「サラーム」といい、ヘブライ語では「シャローム」といいます。イスラエル人とアラブ人は人種的には共にセム族で出自は同じであるし、言語的にはセム語という共通項をもっています。
アラブ人は砂漠で見知らぬ人に出会うと、「ア サラーム」といいますが、これは「あなたのうえに神の平和を」という意味です。
クリシュナのもうひとつの側面は、まさしくシャーンティを実現する神なのです。

●いかにしてダルマ(法)を実現するのか

ヒンドゥー教の教えでは、この世のすべては輪廻転生します。その輪廻の鎖を断ち切らなければ、シャーンティの境地に達することはできません。即ちダルマ(法)を実現できない。
ではいかにしてその鎖を断ち切るか? その方法のひとつは、自らのなかにある迷妄や欲望を押さえて、シャーンティの視点からすべてを見直すことだと思います。