遅咲きのわが家の白梅・紅梅も散りはじめ、駅周辺の大寒桜(オオカンザクラ)の並木は満開で、枯れた景色にまばゆいほどの淡紅色を振り撒いている。野鳥の囀りがひときわ賑やかになってきた。
アメリカでもっとも危険な男
3月1・2日NHKBS1の「世界のドキュメンタリー」で、『アメリカでもっとも危険な男』The Most Dangerous Man in America が放映された。時の大統領ニクソンが、怒りのあまり「あいつはアメリカでもっとも危険な男だ」と怒鳴ったというダニエル・エルズバーグの引き起こしたペンタゴン・ペーパー事件の真相を、本人や息子や友人、また当時の政界やメディア関係者の生々しいインタヴューを交え、追ったものである。
前編は英語で聴いていたが、あまりもの面白さに、後編は一語も聞き漏らすまいと、日本語に切り替えて観た。
1971年、アメリカ国務省の招待ではじめてアメリカを訪れていた私は、少なくとも東部の旅行中はその事件の渦中にあった。ボストンに滞在中、ケンブリッジのマサチューセッツ工科大学で言語学者のノーム・チョムスキー教授に会うアポイントメントを取ってあったのだが、当日彼はエルズバーグ支援の緊急の用事ができてワシントンに行って会えず、彼が依頼した別の学者に会う羽目になった。政治問題だけではなく、彼の画期的な言語学や構造主義についての数々の質問を用意していっただけに落胆したが、代理で会ったレットヴィン教授もペンタゴン・ペーパー事件で、奇妙な言い方だが、冷静に昂奮しているようにみえた(詳細は私の『野生と文明―アメリカ反文化の旅』1972年ダイヤモンド社を参照していただきたい)。
ペンタゴン・ペーパー事件とはなにか。ハーヴァードを卒業後、海兵隊の好戦的な士官(当時は徴兵制であった)をへてタカ派のランド・コーポレーションの研究員となり、ジョン・マクノートン国防次官補の片腕としてヴェトナム戦争戦略の立案にかかわり、すでに民間人であるにもかかわらず、武装して海兵隊と行動をともにする現地視察を行い、マクナマラ国防長官とも同行したダニエル・エルズバーグは、多くの民間人が巻き込まれたヴェトナム戦争の現実(民間人を含めヴェトナム人の死者約200万人、アメリカ人の死者2万8千人)に直面し、しだいに考え方を変えていく。マクナマラ自身も帰りの航空機のなかで彼に、ヴェトナム戦争は間違っていたかもしれないと語ったという。だが空港に降り立ったマクナマラは、記者団に取り囲まれ、満面に笑みをたたえて戦争は順調に進行していると語る。それをみてエルズバーグは衝撃を受け、自分は絶対に自己に忠実であろうと決意する。
その結果がペンタゴン・ペーパー事件である。ランド・コーポレーションの金庫に保管され、彼が保管者であった国家最高機密の数千ページに上る文書、つまりトルーマン大統領以来5代にわたるアメリカ合衆国大統領が、合衆国がやむをえず戦争に巻きこまれていったという公式説明とは裏腹に、ヴェトナムをいかに反共の決戦場としての強固な砦に構築し、積極的軍事介入と援助を行ってきたかという記録を盗み出し、コピーしてひそかにニューヨーク・タイムズ紙やワシントン・ポスト紙をはじめとする有力紙に手渡し、スクープさせた事件である。政府が申し立てた掲載停止の仮執行にもめげず、停止させられた新聞の代わりに別の有力紙がそのつづきを掲載するなど、言論の自由を求めるメディアの抵抗は結局勝利する。
マサチューセッツ工科大学に移籍し、チョムスキーの同僚となったエルズバーグ自身も、国家機密を盗んだスパイ容疑で逮捕され、告訴されるが、連邦最高裁で合衆国憲法修正第一条、つまり「言論の自由の保証」にもとづく判決で無罪となる。
われわれはそこに、完全な三権分立にもとづくアメリカ民主主義の底力を見る思いがする。
だが、あのヴェトナム戦争の教訓、そしてペンタゴン・ペーパー事件で示された民主主義の底力は、いったいどこへ消え失せてしまったのだろうか。9・11事件以来、メディアを含むアメリカの狂気は、これらの記憶を吹き飛ばしてしまったようだ。たしかにイラク戦争の教訓がオバマ政権を生みだしたが、その反省の記憶すら薄れつつある昨今である。
われわれにとっての最大の教訓は、政治的パニック(テロは決して軍事的パニックではない)はナショナリズムの嵐を吹き起こし、それは結局国家を誤った方向に押し流すということである。歴史はしばしばこうした巧妙な罠を仕掛ける。罠を回避する道は唯一、他者を鏡として、われわれ自身の歴史の記憶をつねに喚起しつづけることである。



