『覇王の番人』(真保裕一著)という小説を読んで以来、明智光秀ファンとなり関連本はそれなりに色々と読んだ。その中に題も著者も忘れたが「民のための世を」といった趣旨の歌を光秀は書いたとあり、支持度が再アップ。文京区目白台にある「永青文庫」では今、「新・明智光秀論」を展示中と知り、コロナで閉館される前にと足を延ばしてきた。

チラシ「新・明智光秀論」

 

「本能寺の変」の動機には諸説があるが、この展示会では「新説!」と銘打ち、「(信長の)果てしなき軍事動員の停止のため」とする文の展示が見られたのは収穫だった。

新説!本能寺の変と藤孝

 

光秀は、今で言うところの主君:信長のパワハラに怒り兵を挙げたが、3日天下で終わったダメ謀反人というこれまでのイメージが、400年の月日を経るなかで、はがれつつあるのか?興味深い。光秀は秀吉と「山崎の合戦」をし、敗れてしまったのだが、もし光秀が勝っていたらあの秀吉の酷い朝鮮出兵(朝鮮の人の耳や鼻をそぎとり、持ち帰るなどの蛮行をした)それも2度も!の海外派兵は無かったろうにと…無念

肥後細川庭園入り口

 

このときの山崎の合戦への光秀の援軍要請を断ったのが、公私ともに親しく、光秀からの書簡などを今に残している当時の細川家当主で、現代のお殿様(第18代目細川家当主)は第79代総理大臣も務めた細川護熙さんだ。山崎の合戦のときは、光秀と細川家は親戚同士だったが(細川ガラシャの洗礼名で知られる光秀の娘は当時の細川家長男の連れ合い)、当主は援軍の文を読むや、即、出家し、長男は豊臣側についたようだ。そして「関ケ原の戦い」では、この長男は秀吉ではなく家康側につき、武勲を挙げたとあるから、その変わり身の早さには付いていけない。今回の展示会場の永青文庫は、肥後細川家の広―い日本庭園の一角にある。都会の喧騒を忘れられる、なんとも素晴らしい静かな場所だ。江戸から明治、あの戦争と戦後の混乱を経てもなお、かくも広大な土地を有し続けたその才覚(立ち回り?)には、凡人たる身ゆえ、なんとも言葉がない。

肥後細川庭園

 

だが、この場所を維持し、万人に開放してくれたことには感謝。すぐ近くには神田川が流れ、桜並木が続く道もあった