この人はどこまで堕ちてゆくのだろうか? 映画を観終わって最初にこう思った。この人とはワンダ、アメリカの主婦の名である。馴染みのない人名なので某百科事典を繙いたら「WANDA(もしくはVANDA)は都市Cracovie(ポーランドのクラクフ)の伝説上の建設者Kracusの娘」とあった。つまり、ナウシカのような人物名らしい。じつは、この名前には今なお妙な引っ掛かりを感じている、何とはうまくいえないのだが…

映画はせんじ詰めれば落下の物語といえようか。
母親としても主婦としても失格の烙印を裁判で押されたワンダは、アイロンかけの単純労働の現場を作業緩慢という理由で解雇され、酒場で誘われて一夜をともにした中年男には財布もろとも逃げられ、二人目の中年男には銀行強盗に誘われ(あげく男は警官に射殺され)、場末の酒場で怪しい男たちに挟まれてラストシーンを迎える。

ワンダは万事において受動的だ。気の回るタイプでないし、物ぐさともいえるし、不器用でもある。マイナスを挽回するような積極性に欠けているように見える。だから、なし崩し的に堕ちてゆくのか?

堕ちる、という表現には但し書きがいるかもしれない。社会的階級の階梯を下るというのとは少し違う。というのも、社会的地位という点からすれば、ワンダが下層階級に属することは紛れもない。ぼた山近くの廃材置き場に隣接する煤けた住まい、貧相な家具、安っぽい衣装など、どう見ても底辺である。だから、社会階層としての落下というより、身体を金銭と交換し犯罪に加担するという、現代社会の道徳律に背く倫理的な堕落なのだ。注意したいのは、ここには彼女の精神の堕落が含まれないという点である。ワンダは自分を利用しようとする男の悪意を想像することができない。どこまでも素朴だ。

ところで、銀行強盗は失敗し主犯の男は銃殺される。現場に居合わせなかったワンダは逃げ延びるが、だからといって彼女の落下が終わったわけではない。それを象徴的に示すのがラストシーンである。すでに記したように、場末の酒場で怪しい男たちに挟まれたワンダの姿が、彼女の姿だけが、粒粒のモザイク状になって映画が終わる。そう、ワンダはW・A・N・D・Aというでもいうかのように、ばらばらに解体してゆく。

そして、この解体によってワンダの名称は、ある意味で、個人のものから類のものへと変換する。70年代アメリカ社会の底辺層の女性全員を包含する集合名詞へと。別の表現をすれば、ワンダはアメリカの底辺を生きる女性たちの「典型」となる。一粒一粒の様々な個性の底辺女性たちが集まって類を代表するW・A・N・D・Aという典型を作り出したといってもいい。彼女ら多くは学歴が低く、社会的マイナスを挽回する「ことば」に不慣れだ。ワンダが気のきいたセリフを一言でもいうだろうか?

ここで歴史を振り返ってみると、この映画が作られた1970年代はスピヴァクに代表されるサバルタン(従属的社会集団)研究が端緒についた頃である。そして90年代に入ると『サバルタンは語ることができるか』(スピヴァク)の翻訳を機に盛んに言及されるようになった。監督バーバラ・ローデンは、そんな研究動向とは無縁の地点から、早くも70年に独力で、もともとインドの下層社会集団を対象にした分析をアメリカに移し替え、20世紀後半の社会学を筆頭とする大学人がしたり顔で抽象的に論じることがらを、ものの見事に映像で表現したのだった。

1970年/アメリカ映画
監督、脚本、主演:バーバラ・ローデン

むさしまる