まだ海辺の田舎町で、のほほんとギンヤンマを追いかけていた頃、庭の片隅の木葉に雨蛙がまどろんでいる格好に思わず見とれたことがあった。そうして注視しているうちに、ふと気づくと、この蛙くんにはひとつ余計な、あるいは贅沢なモノがくっついているのだ。それは一本の手で、右手のすぐ下にもう一つ、その手の子供のようなやつが、ちょこんと生えている。
しばらくして、当時愛読していた少年マガジンの読者欄で“5本足の蛙発見!”と今世紀最大の珍種のように書かれていたのを読んだ。先を越された口惜しさなどまるで感じなかった。そのかわり、動くのに不自由じゃないだろうか…とぼんやり案じた。
こんなエピソードを思い出したのは、映画『覇王別姫』を4Kで観た直後のことだ。主人公のひとり、少年チョンが、6本の指をもって生まれたからである。遊女を続けるため子供と別れざるをえない母親は、わが子の行く末を案じ、京劇団に入れてもらうべく6本目の指を切り落とす。けれども、5本指の出生がまとわりつくかのように、少年の人生には波乱に満ちた運命が待ち構えている。
波乱を導く最大の原因はチョン少年の情の深さにある。しかもその情は、たくましく豪胆な兄貴分のトゥアンだけに向けられる。母に捨てられた自分を入門時にかばい、その後も何くれとなく気遣ってくれる恩人トゥアンだから、それも自然な成り行きだ。だが、自分が覇王の愛妾たる別姫役を、トゥアンが覇王役を務める京劇『覇王別姫』を演じてゆくうちに、つまり性的にあいまいな少年時代から男女の性差が顕著になる青年時代へと向かうにつれて、チョンの情は当時の人々が許容する以上の熱を帯びてゆく。劇中の別姫がチョンに憑依するのだ。
一方のトゥアンはある女性に惚れて結婚する。その女性が、を捨てた母親と同じ花柳界の人であるところが興味深い。映画のなかでは触れられていないが、愛する人を失ったチョンの絶望のなかに、トゥアンの妻への嫌悪が混じっていたかもしれない。
その絶望の始まりは動乱の時代の幕開けと重なり、京劇一座も誰もかれも激動のなかをもがいて生きてゆく。かの日中戦争、そして文化大革命… 最愛の者すら裏切る人間の卑劣さ、これはもう、なまじの表現では手に負えない。スクリーンそのものに語ってもらうしかない。
この映画は中国現代史を扱ったものとして、チャン・イーモウの『生きる』と双璧をなすだろう。主要な配役も共通しているから表裏の関係にあるかと錯覚するほどだ。そういえば、本作の監督チェン・カイコ―とチャン・イーモウは『黄色い大地』でタッグを組んでいた。関心の対象も近いのかもしれない。ただ、チェン・カイコ―のその後の作品は、知っている限りでは、どうもいただけない。
最後に、後日談ふうに付け加えておきたい。主役を演じた香港の俳優レスリー・チャンにまつわることだ。映画公開後のインタヴューのなかで、香港の将来について尋ねられた彼の返答が、いかにも歯切れ悪く、暗い予感を示唆するようだった。その後の香港を襲う悲劇、そしてレスリー・チャン自身の自死… どこか映画の悪夢が醒めやらぬ気がしている。
1993年中国映画(製作には香港も関わっている)
監督:チェン・カイコ―
音楽:チャオ・チーピン
むさしまる