アニメ『耳をすませば』(1995年)はわたしにとって忘れられない映画のひとつだ。忘れられない理由はその冒頭の数分間に尽きる。不思議さや懐かしさやらで、ひどく心を動かされてしまったのだ。

懐かしさのほうは、簡単なこと。思いもよらぬ故郷の町の名がポロリと口にされるからである。ことのついでに書かせてもらうと、昨年公開のさる映画では、わが生家近くにある村で唯一の旅館が舞台のひとつで、しかも、詩人役の登場人物を演じているのが、ときたまジムで出会うおっさんで、あんた役者だったの?と愚問を発したわたしでありました。

肝心の不思議さのほうだが、主人公の女の子がわずか数分のあいだに生みだす変貌ぶりのことをさす。「無表情なあの少女が、いつの間にこんな生き生きとした娘に生まれ変わったのだろう?」と、自然な疑問がわいたのだ。

とりあえず状況を説明すると、主人公の月下雫(しずく)は受験を控えた中学三年生で、多摩川からほど遠からぬ高台の、市営アパートらしき団地に住まう、どこにでもある家庭の二女である。変わり者というわけではないが、無類の読書家で、図書館の本を借りまくっている。ある日、借りた三冊の本の図書カードすべてに、同じ男子の名前を発見したところから物語が発動する。

冒頭からこの名前発見までを、もう少し細かく追ってみる。
駅前のコンビニから、サンダル履きにTシャツ短パン姿の女の子がビニール袋を引っ提げて出てくる。このときの彼女の顔は、無表情という点がむしろ印象的だ。のっぺらぼうな線、左右に3まんなかに4といった感じの記号そのもの。むろん、『千と千尋の神隠し』の「カオナシ」と同じく意図的なものだろう。

勤め帰りの人々が行きかう街中から、公衆電話横の小道に入り、坂道の階段をのぼる。その途中で、小さな空き地にたむろする友人とおぼしき男の子たちに手を振る。ただし、後ろ姿で表情は読めない。遠景の動きだから、男の子たちの人相までも確認できない。とはいえ、おぼろげに「人」らしき気配が漂い始める。

5階建ての市営アパートの入り口にむかって近づく。真夏の夕暮れ時とて、入り口の天井に設置された蛍光灯がもう灯っている。その光に惹かれた蛾や羽虫たちが乱舞している。なにげない細部だが、大事な描写だと思う。夏の宵の風物詩が浮かびあがり、絵全体が「息づく」ような気がしてくる。

階段の踊り場で、住人のおばさんとすれ違い、「こんばんは」「暑いわねえ」と会話を交わす。顔見知りに会えば、無表情ではいられない。少女の表情にわずかな生の息吹が生まれる。言葉によるコミュニケーションこそ……むろん、人間の証明にほかならない。

家に戻り、買ってきた牛乳を冷蔵庫に入れる。食卓の母が「またビニール袋、牛乳一本なのに!」と難詰するようにいうと、少女が反論する。生意気盛りの中学女子はかくのごとし。ついで、父親が麦茶を飲みにやってきた食卓で、正面の娘にたいする「雫もカシワザキに行けばよかったのに」のひとことに、「いい、お姉ちゃんといっしょだと疲れる!」と仏頂面で対応する。こうして普段着の中学生らしい主人公が現れる。「命」が吹き込まれたのだ。

その仕上げが、先に示した図書カードの名前に気づくシーンである。と同時に、いずれ「耳をすませば」というタイトルの物語を実際に自分の手で書くことになる、この映画全体の物語が始動する瞬間でもある。すなわち、アニメーションを息づかせる「命」のアニマがこのときから、それこそ「生き生きと」動き始める。

監督:近藤喜文
脚本、絵コンテ:宮崎駿

むさしまる