主役はクレオパトラか?――鈴木優人の『ジュリオ・チェーザレ』

『ジュリオ・チェーザレ(ジュリアス・シーザー)』はヘンデル39歳のときの作品で、17作目のオペラである。ドイツのハレに生まれたヘンデルは、イタリアを経由してロンドンに定住した。そしてオペラを量産することになる。42もの作品を残したが、『ジュリオ・チェーザレ』はそのなかでも間違いなく、屈指の傑作である。このことを確信したのは、鈴木優人指揮による当日の上演を観たからである。

『ジュリオ・チェーザレ』については、ビデオでは何種類もの舞台を観ており、昨年10月には新国立劇場の上演も体験した。そして、ひとひねりもふたひねりもした演出や歌の饗宴に心惹かれていた。何よりも、ヘンデルのオペラに開眼したのは、この『ジュリオ・チェーザレ』である。

優れたオペラは、上演のたびごとに感銘の受け方が異なる。それは、その作品のなかに、多様な要素がこめられているからである。音楽の構築の仕方によって、また、演出の光の当て方によって、傑作オペラはいかようにも変貌を遂げる。

2012年のザルツブルク音楽祭での上演で焦点が当てられていたのは、ジュリオ・チェーザレでもなく、クレオパトラでもなく、ポンペウスの未亡人コーネリアとその息子セストであった。アンネ・ソフィー・フォン・オッターのコーネリアは、夫を殺害された悲劇の女性の怨念を沈鬱に歌い、復讐に燃えるフィリップ・ジャルスキーのセストは、怒りを内に抱えて若々しい。セストのアリアはそれぞれが躍動的で美しく、主役は彼なのかと錯覚したほど。

対照的に、終始楽しく笑わせてくれたのは、2005年のグラインドボーン音楽祭での舞台である。歌って踊る、まるでインド映画のような印象。この上演で一躍有名になったクレオパトラのダニエル・ドゥ・ニースも印象的だが、颯爽とした美男子ジュリオ・チェーザレを歌ったサラ・コノリーが素晴らしい。セストのアンゲリカ・キルヒシュラーガーも劇的でいいのだが、この上演の主役は、やはりジュリオ・チェーザレとクレオパトラであった。

さて、鈴木優人のヘンデルである。私は2020年11月にオペラシティで上演された『リナルド』を観ている。オーケストラは今回と同じくバッハ・コレギウム・ジャパン。しかしこの舞台はほとんど覚えていない。カウンターテナーの実力はまだまだだなぁ、という印象しかないのだ。それが、今回、評価は一変することになった。

バロックオペラのオーケストラは古楽器がいい、という思いを一層深めることとなったのである。寺神戸亮率いるレ・ボレアード、濱田芳通のアントネッロなど、オペラ界での孤軍奮闘ぶりに接しているが、いずれも名演を聴かせてくれている。弦楽器の、ビブラートのない清潔な響きと推進力が、バロックオペラに合っているのだろうか。

今回の上演は、歌手の粒が揃っていた。それに、演出の簡潔さも成功の要因である。ジュリオ・チェーザレ、クレオパトラ、トロメーオ、コーネリアそれぞれに、クーリオ、ニレーノ、アキッラ、セストというパートナーがいて、常にふたり1組で行動する。複雑な人間関係が明瞭になり、物語に入っていきやすい。この物語は、エジプト王トロメーオを軸に回っている、という事実を発見もしたのだった。

トロメーオは、ジュリオ・チェーザレとの戦争、姉のクレオパトラとの権力闘争、コーネリアとセストとのポンペウス殺害をめぐる敵対と、主要登場人物すべてに関わっている。ゆえに、トロメーオに残虐な存在感がないと、このオペラの魅力は半減する。ここでは、アレクサンダー・チャンスが健闘した。

ジュリオ・チェーザレのティム・ミードは哲学的であり、第2幕で戦いの虚しさを抒情的に歌うアリア「何ということ、神よ」は心に響く。第3幕の、生き延びたことを喜ぶアリア「嵐で砕けたはずの舟が」の超絶技巧も忘れがたい。コーネリアのマリアンネ・ベアーテ・キーラントとセスト松井亜希による第1幕最後の二重唱「涙するために」は、悲運の悲しみを深々と表現して、我が目も涙するほど。

そして、何といっても素晴らしいのは、クレオパトラの森麻季である。私は彼女の舞台をいくつか聴いてきたが、今回ほど心を動かされたことはない。バロックオペラのアリアは難しい。アジリタ(玉を転がすような装飾歌唱)が頻出して、音程をとるのが厄介である。それに極めて長大。彼女は、その困難さを微塵も感じさせず、持ち前の美声を開放した。チェーザレを妖しいエロスで誘惑する「焦がれております、優しい眼差しよ」(第2幕)、彼を喪失したと思いこんで嘆く長大な「運命に涙し」(第3幕)、これらのアリアでは、満場の拍手が鳴りやまなかった。

バッハのカンタータや受難曲を演奏して世界に名を馳せているバッハ・コレギウム・ジャパンが、一転、オペラの世界を縦横無尽に開いてくれた。鈴木優人には心から拍手を送りたい。

2023年10月14日 於いて神奈川県立音楽堂

指揮・チェンバロ:鈴木優人
演出:佐藤美晴

チェーザレ:ティム・ミード
クレオパトラ:森麻季
コーネリア:マリアンネ・ベアーテ・キーラント
セスト:松井亜希
トロメーオ:アレクサンダー・チャンス
アキッラ:大西宇宙
ニレーノ:藤木大地
クーリオ:加藤宏隆

管弦楽:バッハ・コレギウム・ジャパン

2023年11月4日 j.mosa