むさしまるのこぼれ話 その二十 風貌…
『阿賀に生きる』(佐藤真監督、1992年)は、阿賀野川流域の農村で暮らす三組の老夫婦の日常生活を中心に追ったドキュメンタリーである。長谷川夫妻は農業、遠藤夫妻は船大工、そして加藤夫妻は餅つき職人と三者三様だが、年齢はみな八十前後。つまり、いずれの夫婦も、ほぼ半世紀前の若さに溢れたころ、戦争を体験しているわけだ。
映像の時間的推移は、遠藤老人が川船製作にとりかかって完成するまで、とほぼ一致する。ただし、孤高の船大工ともいえる遠藤老人は、製作を放棄して久しく、知人の大工の度重なる懇願にも、頑として川船製作を拒否しつづけてきた。それが突如、埃をかぶった鋸を取りだし、老体に鞭うって作業に打ち込みはじめる。いささか偏屈なこの頑固爺が、進水式の場面で、じんわり盛りあがる涙目をこらえている姿は、一幅の絵である。
映画の主軸という点では、やはり長谷川夫妻をあげるべきだろう。映画の冒頭、篠突く雨のなか、川っぷちの狭い、ぬかるんだ田んぼで、腿まである重いゴム長をつけて、腰をかがめて(老婆にとっては、かがんだ姿勢が常態といっていい)、老夫婦は稲穂を刈る。壮年にすらきつい重労働である。ところが、いや、だからこそ、夕餉の場となると、コップ酒を片手に(この辺は銘酒「麒麟山」の地元である)老爺は御託を並べ始め、一杯機嫌の老婆からは歌も出る。
遠藤老人(加藤夫妻ももちろん)もそうだが、とりわけ長谷川老夫婦の表情には、いわくいいがたい、ある種の厚みがある。まさしく、風貌、なのだ。戦争体験と雪国の川べりの生活…… もちろん忘れてならない、この地は、阿賀野川を一躍全国的に有名にした、あの新潟水俣病の発祥地にほかならないということを。
長谷川翁は、新潟水俣病の未認定患者で、水俣病訴訟のれっきとした原告である。とはつまり、ひきつる手足の指や頭痛で眠られぬ夜々があるはずなのだが、そんな様子はおくびにも出さない。その語られぬ夜々をしのばせる小説を紹介しよう。短編小説集『律子の舟』(新村苑子著、玄文社、2012)である。
「律子」というのは、家族が水俣病という世評がひろがり、その結果、交際相手の若者との絆をたち切られ、冬山で自死を選んだ娘の名前である。ことほどさように、ふだんは平穏に見える農村の村人たち同士が、いや家族でさえもが、得体のしれぬ病をめぐって腹のうちをさぐりあい、それまで隠れていた嫉妬、競争意識、敵愾心をむき出してゆく。訴訟の原告にも補償金目当て、との噂がつきまとう。「律子」のような悲劇をさけようと、家族の病状をひた隠しにする家も多い。
そんな殺伐とした光景が多いなかで、「律子」の弟が、一家の希望の星としての教員生活を投げうって、水俣病被害者救済事業に打ち込んでゆく姿は、一条の光となる。
本のなかでは、「兄の声」と題された最後の短編がとりわけ印象的だ。中年の「公夫」が兄「俊行」の声を聞く夢をみて、それをきっかけに、過去を回想する物語である。この兄は胎児性水俣病患者として生まれ、聾唖の身で、九年の生涯を閉じた。
参考として、一つの文献を引用する。
「(1)。さらに,母親が妊娠中に食べた 汚染魚由来のメチル水銀は経胎盤的に胎児に移行し,次 世代を担う児の脳に傷害を与えた。典型的な胎児性水俣病患者は,1955–59 年の汚染が最も激しかった時期に生 まれた。彼らは,妊娠,分娩時には異常が無かったが, 言葉を発しない,首が座らない,歩行ができないという 脳性麻痺患者に見られる症状を生後の発達期に呈した (2)。胎児性水俣病患者を生んだ母親には水俣病の症状 がないか軽度であり,「自分が無事でいられたのは子ど もが体内から毒を吸い取ってくれたお陰である」と話す 母親のことばを聞いた」
次男「公夫」には障害がでていない。三男の「修平」にも、産んだ母親自身にも。彼らは「俊行」に守ってもらったのである。「俊行」の葬儀のあと一年ほどした家族団らんの場で祖父のもらしたことばが、この小説集のいわば集大成だろう。
「人の毒を引っ被ってくれるなんてがんは、人間の業ではねえわや。神か仏でもねえ限りならん事(こん)だ。あれはそんげな役目を貰うて来たんかなあ。たあんだ、にこにこと笑(わろ)うてるだけだったが」
こう語っている老爺もまた、映画の長谷川翁と同じ世代で、同じような風貌の主かもしれない。「笑(わろ)うてるだけ」の「俊行」には、さらに、神々しい風貌が宿っていたはずだ。この子こそ、石牟礼道子のいう《人間はなお荘厳である》を、そのまま湛えた風貌だったと思いたい。
むさしまる