こんな味わいの日は、そうざらにはあるまいなと思えるほど濃い時間を過ごした一日だった。台湾映画の7時間、そのあとビールと餃子を囲んで映画好き3人の映画評。帰りの電車のなかでは、人々の日本語が異国語に聞こえた。オレ、台湾人になったんやろか?

『非情城市』については、森さんに書いてもらったから、今回は『クーリンチェ少年殺人事件』にしぼりたい。でも一言だけ、主婦に戻ってスクリーンではもう出会えない、あのシン・シューフェンの不思議な風情とその風情をつつみこむメロディーの物憂げな美しさ、それと対照的な冒頭と最後の力強いリズム。こればかりは特筆しておきたい。歴史に翻弄される人々の、どっこいしぶとく生きますよ、と鼓舞するリズムなんだな、これが。

さて『クーリンチェ』、これはまた見事といえばあまりに見事な作品だ。語りたいシーンは多々あるが、わたしにとってのこの映画の印象はほぼ2点にしぼられる。すなわち「暴力」と「少女」。

まずは「暴力」だが、昭和世代としては、どこか中野電波高と朝鮮高校のすさまじい凌ぎ合いを彷彿とさせる。この暴力をブラジル映画の『シティ・オブ・ゴッド』と比べる人もいるだろうが、単純な比較はできないと思う。どちらも、植民地化を受けた国の少年たちの暴力ではあるけれども、混血社会である南アメリカの大都市のスラム街に巣くう暴力と、急激な近代化を余儀なくさせられた中国系台湾人の一般家庭の少年たちが抱える暴力とでは、位相がまったく異なるのではないのか?

『クーリンチェ』を支えているこの暴力の背景には、アメリカン・ポップスに代表される米文化の強大な影響力と半世紀にわたる植民地支配の残響たる日本家屋がある(と思える)。和風の四畳半の部屋で聞くプレスリー… まるで昭和の日本だ。それだから、米文化を象徴する野球バットと日本文化の残響たる日本刀が、映画のなかで象徴的な役割を果たしている気がしてならない。

もう一点の「少女」。映画のなかで「小明(シャオミン)」と名づけられた彼女は、何と形容しようか困惑するほど不可思議な女の子で、わたしにとっては「あの女の子」と匿名でしか表わしようのない抽象性をもっている。この抽象性を別の表現にすると、ある種のヴェールをまとっている、ともいえるし、リアリティの欠如、といってもいい。ともかく、彼女は“遠い”のだ。

目の前に居ながら手の届かぬあちら側に居るような、そんな少女を好きになった少年が相手を自分に引き寄せたいと思うとき、彼女を生身の人間として感じたいとき、少年に可能なこと。それは、彼女を包むヴェールを引きちぎって暴力的にこちら側に引き寄せること、つまり彼女の生暖かい血を流させることじゃないのか? その血が流れるのを感じたとき、少年にとって抽象的な「女の子」が初めて現実的は「僕の小明」になるのではないだろうか?

刺殺の決定的瞬間は、もちろん映画のクライマックスだ。たいていの映画ならスクリーン一杯に二人の顔がクローズアップされるところだろう。でも、ドン・ホセとカルメンのようにはいかない。遠景に映る二人の表情は判然としない。だから、観客であるわたしたち自身がその表情を想像するしかない。そして想像せずにはいられない。そんな風にわたしたち観客それぞれが自分の思い描く二人の表情を描くこと、それは二人になり替わることであり、主人公二人の生を生きること(部分的であれ)でもあるだろう。これも監督の仕業かと思うと、エドワード・ヤン、恐るべし!

むさしまる