『シークレット・サンシャイン(密陽)』(監督イ・チャンドン)
これはもう、ひたすらラストシーンを語りたい作品だ。

どこにでもころがっている、しもた屋風の家の庭先。そこにある台に鏡を置いて、パンプスをはいたワンピース姿の女が椅子にすわって自分の髪を切り始める。感情を忘れたような、あるいは、放心したような顔で。そこへ、庭の奥の扉を開けてジャケット姿の男が、照れくさそうな笑みを湛えて、「お邪魔虫でしょうか」と問いたそうな感じで入ってくる。男は、女が見やすいようにと、鏡を両手でもってやる。ちょうど男のお腹の部分に鏡が位置している。鏡に女の髪を切る無表情な顔が映る。男の笑顔がなければ、抱えた鏡はまるで遺影のようだ。

切られた髪の毛が地面に落ちる。カメラはその髪がそよぐ風で流される後を追う。流される先には、プラスチックの盥やら、洗濯機のホースの残骸、廃材の片割れらが雑然と無機質に散らばっている。その寒々とした光景のなかに、スローテンポの物悲しいテーマ音楽が流れて映画は終わりを告げてゆく。

詩情のかけらもないこの庭先の光景とは、いうまでもないだろうが、主人公の女の心象風景である。彼女の心は荒廃している。彼女の内面が破壊されてゆく物語、それがこの映画の筋立てというわけだが、彼女の抱える闇はこんな理由による。

彼女は夫に先立たれたばかりか、転居した夫の故郷で幼い息子までも失う。それも自分に岡惚れした学習塾教師による誘拐殺人の犠牲者として。そんな不条理な運命の痛みのなかでイエス信仰を知り少しずつ傷が癒え始め、加害者を慰めるべく収監されている刑務所を訪問する。ところが、刑務所で同じくイエス信仰に目覚め「充実した」生活を送っているもと学習塾教師の「神はわたしを許したもうた」という一言が、彼女をさらなる奈落に引き落とす。自分が許すよりさきに神に許された男の福々しい顔とは正反対に、こうして彼女は神なき世界を死んだように生きることになる。

話をラストシーンに戻すと、こんな境遇の彼女を知っている者には、鏡が遺影のように見えても不思議はない。ただし、鏡を抱いている男の笑顔があるから、遺影にはなるかどうかは微妙なところだ。じつは、この男もまた彼女に身もふたもなく惚れ込んでいる。したがって彼女に尽くして尽くしぬくのだが、彼女がその熱意に応えることはない。お人よしの田舎者でちょっと鈍感、かといって人の心の痛みには繊細に感応する男なのだが、彼の好意はいつもほんの少しピントがズレてしまう。そのズレの醸し出す滑稽さと切なさ、そして男の純朴な誠実さが、暗さ一方のこの物語に絶妙の味つけをあたえ、ほのかな希望を垣間見させてくれる。

『オアシス』と並ぶ、巨匠イ・チャンドンの必見映画である。

むさしまる