『長江哀歌』(原題:三峡好人Still life)(三峡の善人)(監督ジャ・ジャンクー)

三峡ダムによって埋没の運命にある奉節(ホンジュ)の街にたどり着く男と女がいる。男は16年前に幼子を連れて出奔した妻を求めて、女は2年前に姿を消した夫を探して。この二人の男女は赤の他人で、互いの物語が交錯することはない。だから、二つの異なる物語が交互に展開する。

二つの物語は対照的な結末を迎える。40代と思われる、いかにも田舎じみた短躯の男のほうは、粘り強い探索の末に「妻」を探し当てる。「若かったから」という不明瞭な理由で自分の出奔を片づける彼女は、復縁を迫る夫の申し出を承諾する。
こんな印象的シーンがある。歳月を経て旧に復した夫婦が眺めるなか、奉節の街の大きなビルが爆破されて崩れ落ちてゆく。水没前の街が身もだえる姿のように。

もう一方の「夫」を探す女のほうは30代前半くらいか。こちらも数々の障害を乗り越えて再会にこぎつける。そして、これまた忘れえぬシーンだが、三峡ダムの工事現場近くの、いずれ水深百数十メートルの底となるであろう川辺で、手に手を取ってワルツ(のような?)を踊る。近くで踊り用の音楽が流れているからだが、二人の表情は明るくない、とりわけ女のほうは。その表情が予感させるとおり、女は男に、離婚手続き書類に押印するよう言い渡す。

二組の夫婦はこうして復縁と別離という対極的な結末を迎える。彼らに共通しているのは静かな身振りと寡黙さである。それはどこかで長江のたゆたう流れと重なる。英語の副題Still lifeはそんな長江と人々の生き方を表しているのだろうか。だが、長江はダムによって流れを断ち切られて身悶えしているかもしれない。そして長江と共に生きる人々も、静かな日常ばかりではないはずだ。

この点を考えるには、映画冒頭のシーンにしくものはない。映画は船の汽笛とともに始まる。そして、庶民が乗り込む船底のほうの二等客室の船首から船尾へとカメラはゆっくりと移動する。おそらく河口の上海あたりから乗船した人々が多いのであろう、ほとんどの男は赤銅色のもろ肌で、饒舌そうな身振りと口ぶりだ(ただし音はテーマ音楽のみ)。男たちはみなタバコをふかし、あるいはトランプの博奕に興じ、または手相占いに没頭し、はたまた腕相撲に我を忘れている。女たちは世間話に余念がない。

むろん子供たちもいる、タバコの煙のなかに。その子供のなかの一人の行動がとても気になる。カメラのほうを見るのだ。おそらくこの光景は実際の乗客を利用したと思われるが、だからこそ、カメラのほうをチラ見する大人は何人かいる。それは、ほとんど気にならないのだけれども、小学校3,4年あたりらしき女の子の視線は、まごうことなき、ガン見である。

これを、監督ジャ・ジャンク―は意図的に残した。なぜか残したか?は考えるに値する。端的に言って、映画を観ているはずのわたしたちが、「見られている」のでないのか? それは、観ている「わたし」とは一体何者?という実にまっとうな疑問を投げかけているように思える。

それにしても、この冒頭のシーンは見事の一言に尽きる。大半が出稼ぎと思われる、南部出身者と思しき人々、こんなに多様な人間の表情を表現しえた映画は空前絶後ではないか。中国の生きる力を目の当たりに見た思いがする。

民と民と民と… なのだ。

むさしまる